スーパーふどげりさ

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ブレーザーに足りなかったもの、そしてあったもの。『ウルトラマンブレーザー』総括感想

ウルトラマンギンガ』から10年の節目である2023年から翌2024年にかけて放送された『ウルトラマンブレーザー』は、ニュージェネレーションヒーローズの積み上げてきたノウハウを活かしつつも、ニュージェネのお約束の多くを排した異色作となった。
であると同時に、ウルトラマンのSFオムニバスという側面にフィーチャーした、王道のウルトラシリーズ作品でもある。

本作は、「縦軸ドラマを担当するヴィラン」「日本語をしゃべるウルトラマン」「数多くのタイプチェンジ」という各要素を廃しているのみならず、根本的なところでも例年のウルトラマンと異なるところの多い作品だったのではないか。
この記事では、作品としての『ウルトラマンブレーザー』に足りなかったと思うもの、そして例年のニュージェネウルトラマン以上にあったもの……という観点から、作品を総括していきたい。


ウルトラマンブレーザーは、痒いところに手が届かなかった。
本作でよく言われる批判が、アースガロンの戦績が良くないということだ。アースガロンが「活躍していない」「かませ」みたいなのは半ば事実誤認で、アースガロンがいなければブレーザーが勝てなかった戦いも一つや二つではない。
……とはいえ。いくらいぶし銀の活躍は多くても、もっと派手に強敵を打ち破ってほしかった、という批判そのものは理解できる。ナイスアシストをしていても、その後怪獣に倒されて後はブレーザーにお任せ、ということも多く、いかんせん、あまり強くない印象はある。
……でも劇場版ではそんな不満を打ち破ってくれたので、まだ観てない人はぜひ観てね!!!!!!!

また、リアル寄りな作風の割にゲントがブレーザーだと全くバレないのも気になるといえば気になる。
そもそも作中の人物には「人間がウルトラマンに変身する」という発想自体がないだろうから……とは思いつつも、数分間とはいえ毎回のようにゲントがいなくなるのに他の人は気にするそぶりすら見せない、上層部もそこは怒らない、というのは、さすがにちょっと不自然だったように思う。
前作『デッカー』ではユーモアも交えつつ、カナタがウルトラマンだとバレにくくする仕掛けを用意していたから、尚更気になる。

そして……ファードラン、もうちょっとなんとかなっただろ!!

……以上の3点のように、『ウルトラマンブレーザー』は視聴者の少なくない割合が気になっている点を解消させてくれなかった、というのは確かにある。

 


ウルトラマンブレーザーは、ケレン味が足りなかった。
「アースガロン単独撃破少ない問題」のもう一つの側面は、これだ。なんだかんだで、ヒーローやロボットが派手な技で派手に敵を倒し、見得を切ったりするお約束は、このジャンルが好きなら大抵の人は好きだろう。
しかし、アースガロンの装備はアースファイア以外は中々地味。鳴り物入りで出てきたMod.2ユニットも、ピュッと弾丸を出すくらい。ここ数年定番となった味方ロボット怪獣の中では、一番渋好みである。
SKaRDの装備も青系のツナギに現実的な銃、基地も派手さはない。
そして肝心のブレーザーも、タイプチェンジが(ファードランアーマーは置いといて)ないだけでなく、光線系の技も少なく、ファイトスタイルも流麗な格闘技ではなく荒々しく野性的なもの。
もちろんキャラクターや世界観には合っているが、これらにどこか物足りなさを感じる人もいただろう。
あと、個人的に結構大きな不満なのが、思いの外スパイラルバレード大喜利がハネなかったこと。序盤こそ頑張っていたものの、レインボー光輪やチルソナイトソードにトドメの主役を譲り、中盤からはあまり出なくなってしまう。
販促的には仕方ないのだが、トドメにはしないにしてももうちょい定番の技として一貫させ、かつバリエーション豊かに魅せてほしかったかな……。

これらのケレン味の薄さは、今回、久々に坂本浩一監督が不参加だったというのも大きいかもしれない。坂本監督のウルトラマンは賛否が分かれるところだが、少なくとも派手さ・ケレンやスパイラルバレードの面白い魅せ方は担保してくれただろうな、と思う。

と、このように、『ウルトラマンブレーザー』は、確かに足りていないところ、気になってしまうところも割とある作品だった。作風が好みに合う私ですら少し気になるのだから、好みでない人にとっては尚更だろう。SNS上などで賛否両論であったのも、理解できるのだ。

しかし、では『ブレーザー』が面白くない作品だったのか?というと、全くそんなことはない。
大前提として面白いウルトラマン作品であったし、足りなかった要素もあった分、例年以上にあった要素も多々含んでいる作品であったように感じる。
では、私の考える、本作の「あった」部分を見ていきたい。



ウルトラマンブレーザーには、美意識があった。

成田亨によるウルトラマンの油彩画が『真実と正義と美の化身』であるのは有名な話だが。
ウルトラマンブレーザーのデザインには、初代ウルトラマンウルトラマンティガの持つ調和のとれた美とはある意味対極的ではありながらある意味では相通ずる、荒々しい美があると思う。
ひとつ前の主役ウルトラマンであるデッカーをさらに上回るアシンメトリー、顔から漏れ出るような、傷めいた光の装飾。円形のカラータイマーから血管のように伸びる赤と青のライン……
得体の知れない未知の宇宙人であること、狩人であること、それでいて優しさと善性を持っていること、その姿を見るだけでそれらを感じることができる。個人的にはニュージェネウルトラマンでもギンガに並ぶ傑作デザインだと思う。
「荒々しさの美」はブレーザーだけでなく、怪獣たちからも感じられる。特に楠健吾氏の手掛けた4体、バザンガ・タガヌラー・デルタンダル・ヴァラロンは、生物的でありながら現実のどこにもいない、まさに「怪」なる「獣」たる美しさを備えていると感じる。
本作の美意識は、キャラクターデザインのみにあらず。本編・特撮美術は非常に密度が高い!
SKaRD基地内の各隊員の机は、そこで本当にそれぞれが働いていそうなリアリティあふれる小道具でいっぱいだ。そしてアースガロンのコクピットは、まさに特空機の発展継承ともいうべきミリタリー的リアリズムあふるる密度感!こうした視覚的な実在感が、文芸設定などと相乗効果を生み作品の完成度を高めるのだ。
そして特撮美術。本作での特色は、なんといってもミニチュアのバリエーションである。ブレーザーでは、これまでのニュージェネ作品ではあまり見られなかった港町・農村などのシチュエーションにおいて、ドラマパートとカットが切り替わってもほとんど違和感のないリアルなミニチュアを見せてくれる。
都市部に限っても、1話の池袋・最終回の品川・劇場版の霞が関と、東京の各部においてそれぞれ微妙に異なる装飾が行われ、各都市のロケ地に近い印象を与えることに成功している。

もうひとつ付け加えておくと、中川和博監督回、特に7・8話の「虹が出た」は非常に美意識が強く出ていたと思う。
夏の設定なのに撮影時期的に景色が夏っぽくないという欠点こそあるものの、画面構成・カットの割り方・特撮・VFXと、どれをとっても映画的であり、とても美しかった。
ゴジラフェスの短編シリーズなど乗りに乗っている中川監督。今後も注目していきたい。




ウルトラマンブレーザーには、「好き」の力があった。
以前『ウルトラマンZ』について書いた時に、「最強の世界」と評したが、今思えばZはまだ手加減してたんだなと感じてしまうほど、『ブレーザー』は田口清隆監督の好きなものが詰まっていた。
『Z』より更に濃くなったミリタリー描写(これに関しては、田口監督と共同でシリーズ構成を務める小柳啓伍氏の貢献も大きいだろう)、それでいてどこかユーモラスな(でもわざとらしくない)雰囲気。
まんまメカゴジラなアースガロン、そして怒涛の新怪獣。再登場怪獣の枠でも、田口監督の悲願であったガヴァドンなどが復活している。OPのサビまでがこれほど怪獣重視なのは、ニュージェネでも異例のことだ。
商業的にも推し出された怪獣ソフビの数々の売れ行きが好調だったらしい話を聞くと、世の怪獣好きはかつての怪獣コンテンツ氷河期を思い、涙したことだろう。
また、第1話「ファースト・ウェイブ」はまさに田口作品の真骨頂ともいえる話数となっている。怪獣映画のサビの部分だけを抜き出したような硬質な雰囲気はニュージェネどころかウルトラシリーズ全体でも珍しい。本作の発想の出発点は「怪獣が暴れる池袋に空中から降り立つ防衛隊」だったとのことで、まさに田口監督がやりたかったことが特に表現されているといってもいいだろう。
その池袋や最終回の品川と、東京の実在都市を舞台にした特撮が続き、そしてついに劇場版では霞が関中心を最終決戦の場とし、国会議事堂が破壊される。
怪獣映画にとって、有名建造物の破壊は華の一つ。『ブレーザー』は、田口監督の怪獣映画好きがこれまでのメイン監督作品以上に表出した作品といってもいいだろう。

「監督には好きなことをやらせすぎず、ある程度縛ったほうがいい」という意見は昨今結構耳にするし、それも間違ってはいないと思う。なんだかんだで、大衆の求めるものとのすり合わせが、商業作品を作る上で大切であるとも思う。
でも、かっこいいじゃん、自分の「好き」を実現させるために全力な姿は……。
本作でも頻出した、いわゆる川北後光は、自分の好きなものを形作った先人たちへのリスペクトと、それを受けて自分のやりたいことを、色々縛りの多い子供向けシリーズの中でも実現させていく、という田口監督の意思表明のようにも感じられた。



ウルトラマンブレーザーには、志があった。
「好きが詰まっている」とだけ言ってしまえば、ともすれば独りよがりな作り方のようにも思えてしまうが、『ブレーザー』は独りよがりな作品にはなっていなかったとも思う。
と、いうのも、本作は今後ウルトラシリーズが続いていくにあたってのレガシーを遺したからだ。

ウルトラシリーズは嬉しいことにここ数年、商業的に好調となっている。
しかし、好調ということは今成功している「型」のままいけば大外しはしにくい、つまり商業的にも同じことを続けがちになっていくということ……。
例えば、今までのニュージェネウルトラマンは、大なり小なりどこかで過去のウルトラマンの要素を含んでいた。力をお借りしたり技アイテムを使ったり……。
しかし、それが続けば段々とやれることが狭まっていってしまう。それを『ブレーザー』では、大きく変えた。それ自体が、商業的に大きな勇気の要る決断であったと思う。
もちろん、『Z』の防衛隊復活や、『トリガー』『デッカー』のあまり喋らないウルトラマンなどの延長線上の挑戦でもあるが、それでも今が大きな方向転換をやるべきタイミングだったと思う。
一度変わったことをやってみて、かつそれで大失敗しなければ、後続も挑戦しやすくなる、やれることが広がるはず。
後に続くウルトラマン作品の幅を広げるためにも、一度異色作を作るということは志あるチャレンジだったことだろう。

各話単位でも、各スタッフの志は高かったように思う。
それを特に感じたのは、9話「オトノホシ」および、半総集編である13話「スカードノクターン」だ。ニュージェネ13話の総集編回は新人監督の登竜門とのことだが、本作の13話は「自分の足跡を刻みつけよう」そして「良い作品にしよう」という志が強く感じられた。今回が初メガホンとなる宮崎龍太監督は実相寺昭雄監督のファンとのこと。私が珍しいなと思ったのは、変わったところにカメラを置いたり魚眼レンズで顔を歪めたりする、いわゆる「実相寺アングル」には多くのフォロワーがいるが、場面転換に違和感のある音を用いたりして緊張感を出していく手法は、実相寺監督リスペクトを公言している人でもあまり引用していないように思う(他にいたらすみません)。
そういった意味でも、既に作風が確立されているし、こちらも今後が楽しみな監督であった。


ウルトラマンブレーザーには、伝えたいことがあった。
個人的に、田口監督メイン作品として、過去作と一番変わったところがここだと思う。インナースペースがあるかとか、怪獣が既存多目か新規多目かとかは、いわば表層的な違いである(表層こそ大切である、とも思うが)。

ガイやジャグラーのパーソナルな物語として決着した『オーブ』はともかく、『X』の「怪獣との共存」や、『Z』の「全ては救えない」「強すぎる力を持つ怖さ」……は、どことなく地に足が付いていない感があった。特に『Z』の力を持ちすぎる恐怖は、結局、人類のエゴが招いたものというよりは、セレブロが遊び感覚で裏で手を引いていたからだった、というふうに処理されてしまったのだ。『Z』はウルトラシリーズでも特に好きな作品だが、ここは未だにどうにかならなかったのかな、と思わなくもない。
しかし、『ブレーザー』の、とりわけ最終回は、非常にテーマ主義的だった。作品として掲げていた、コミュニケーションというテーマ。かつて起きた、「伝わらなかったこと」による負の連鎖。それがピークに達し、あわや人類対V99の泥沼の戦いが始まるのか、というところで、SKaRDは、ブレーザーは武器を捨て、必死に攻撃の意志はないことを訴えかける。そしてV99側もついにそれに応じ地球を去っていく───
これは、凄惨な戦争のニュースが日々伝えられるここ数年を顧みると非常に時代を反映したものであると同時に、普遍的でもある。悲しきかな、人類の間で戦争が完全に絶えたことはない、というだけでなく、そういった大きな問題を我々個人間の小さな問題に置き換えることもできるからだ。
仔細な行き違いが大きな歪みを生み、それを直せなければやがて決裂する。これは田口監督がキャリアをこなしてきた中で実感してきたことなのだろう。そして、「やがて」に至る前であれば、かつ直そうとする勇気があれば直せるということも。
ウルトラマンブレーザー』は、中盤のゲントとブレーザー【個人間】、終盤の地球人類とV99【異なる人類間】で、スケールが大きく異なる行き違いとそこからの歩み寄りを描いた後、劇場版で再度マブゼ社長とその息子・ユウキというパーソナルな行き違い、及びそこからの歩み寄り……という動きを反復する。集団とて結局は個人の集まりである以上、結局その動き方は本質的に同じなのかもしれない、ということを示すかのようだ。

そしてもうひとつ。混迷する昨今の世界情勢を思えば、防衛軍の決定に従い各国もV99迎撃をやめるという展開は、牧歌的で、比較的高く保ってきた本作のリアリティラインにそぐわない、とも言えなくもない。
しかし、なんだかんだで『ブレーザー』は子供番組だ。ここ一番のクライマックスで「しかし従わない国も少なくありませんでした」なんてやってしまったら、悲観し、現実ばかりを見て理想を唱えなくなる……なんて子が生まれてしまうかもしれない。ここはあえてリアリティラインを下げてでも、「がんばって相互理解しようとすれば、相手も歩み寄ってくれる」というメッセージを優先すべきところと思うのだ。
ウルトラマンブレーザー』は好き放題やってるようでいて、なんだかんだで子供の方をしっかり向いている作品であったと思う。
(ついでに言うと、この最終回はメッセージ性が強くありつつも、「ブレーザーやアースガロンがヴァラロンにやられてしまう前にV99は応じてくれるのか」というハラハラ感も出してくれ、説教臭くなっていないのも良いところだ。道徳の教科書を好んで読む子供は、皆無とは言わないけどあんまりいないからね)
このメッセージの切実さは、これまでの田口作品にはあまり感じられなかったものであり、そして本作の最大の特徴のひとつであると思う。

 


さて、4度目のメイン監督兼2度目の共同シリーズ構成という大仕事を終えた田口監督の次なる夢は、「予算と時間を十分にかけた長編映画ウルトラマン」だそうだ。映像表現としては、『ガメラ3』の延長線上的な、CGと特撮のハイブリッドを目指したいという。

「ウルトラマンには、もっと可能性がある」田口清隆監督が目指す、特撮の未来と“夢”の進む先|最新の映画ニュースならMOVIE WALKER PRESS

今回は相当裁量権が大きかったとはいえ、予算も時間もそう潤沢ではないと伝えられるニュージェネウルトラマン。制約から諦めてきたことも多かったろう。あるいは、玩具と連動する販促番組だというのも、ある意味ではシリーズの武器であるけれど、ある意味では枷でもある。
そういった制約から完全にではないもののある程度解き放たれ、度肝を抜く映像を、かっこいいウルトラマンと怪獣を、微に入り細を穿つディテールを、最強の世界を、そして普遍的なテーマ性を。
備えた田口監督による新たなウルトラマンを、いつになるかは分からないけど見てみたい。
(そしていつかはゴジラ映画を……!)

 

 

 

 

 

 

 

無限の想像の中から。『グリッドマン ユニバース』感想

※全編ネタバレありです。未鑑賞の方はブラウザバック推奨。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


グリッドマン ユニバース』が私の心に深く突き刺さり、早くも心の中の特別な位置に占める作品のひとつとなりつつある。

ただ、「ファンサービスに徹した娯楽作品」との評をちらほら目にする。と、いうか、パンフレットで「ファンサービス全振り」と明言されている。
しかし、私は思う。確かに胃もたれするくらいのファンサービスが嬉しい作品だが、『グリッドマン ユニバース』は決してファンサービスだけの作品ではない。むしろ、テレビシリーズより深くテーマに切り込んだ、普遍性のある名作であると。
本稿では、議論の飛躍等色々あると思うが、自分なりに本作のテーマについて考えていきたい。

私が思うに、本作のテーマ(の、少なくともひとつ)は「想像力の肯定」だ。
これはどういうことか?
本作は、「イマジネーションや創作によって作り出された世界」の多重構造になっている。アカネ達のいる実写の世界があり、そのアカネがかつて創り出しグリッドマンが拡張した『SSSS.GRIDMAN』の世界があり、グリッドマンが本編最終回後に新たに創り出した『SSSS.DYNAZENON』の世界やちらりと触れられる各漫画等スピンオフの世界があり、さらに複数の劇中劇があり……。
ここにメタ的な意図があることは、ほとんど疑いようがない。そして、劇中最も大きく触れられる劇中劇の完成形はずばり『グリッドマン ユニバース』。世界の危機と並行して内海と六花を中心に台本制作の過程が描かれ、エピローグで上映される。これはパンフレットで雨宮哲監督が言及しているとおり、本作あるいはテレビシリーズの試行錯誤の過程を作中に取り入れたのだろう。
さらに、グリッドマンの新形態となるユニバースファイターは文化祭の準備で主要人物たちが描いたグリッドマンの姿が重なって生まれた姿だ。
……と、ここまで読んだ読者諸君は思うかもしれない。「じゃあ、テーマは『創作の素晴らしさ』とかじゃないの」と。事実、テレビシリーズ二作品に続き本作でも怪獣デザインを担当した西川伸司氏は、テーマは「創作讃歌」としている。 

※4/7訂正:西川氏が「創作讃歌」としていたのは、主題歌『uni-verse』についてでした。謹んでお詫びし、訂正いたします。

https://twitter.com/MASH_nishikawa/status/1640164185471582208
無論、それも間違いとは全く思わない。内海演じるグリッドマンを皆が笑いつつも楽しむ姿は、完成した作品が客に触れる創作の醍醐味そのものだ。
しかし、やはり私は、本作の根っ子にあるのは「創作」だけでなく、創作の更に前段階、想像すること、思い浮かべることのすばらしさを称えたいという思いに感じたのだ。

ストーリーの中盤で、世界の危機の前兆として「カオス化」が発生する。エントロピーが増大し、死者が復活し、都合のいいことが起こり、時空さえ歪む。そしてもちろんカオス化(と、世界の消滅)は止めなくてはならないものとして描かれ、実際に止められる。だから、カオス・混沌は本作において否定されるべきものと考えた方もいるかもしれない。
が、思い出してほしい。そもそも作中的にはユニバースの統合によるカオス化の一端として発生したであろう『SSSS.DYNAZENON』の登場人物が『SSSS.GRIDMAN』に行く現象は本作の売りのひとつである(事実、2作品の登場人物が大集合した画面は、ごちゃごちゃしていて秩序とは程遠い)。かつ、登場人物同士の絡みは、多くが微笑ましかったり熱かったり、ポジティブな感情を想起させるものとして描かれている。さらに、おそらくカオス化が進んだため発生したであろう、本来あり得るはずのなかったガウマ(レックス)と姫の再会は、それ自体は非常に感動的である上、それが夢とか幻覚であったというようなオチはなく、再会自体は紛れもない事実として描かれる。
また、今回の黒幕にして混沌の象徴たるマッドオリジンを倒すためのクライマックスの戦闘は、畳みかけるような新合体、主題歌×3に載せる見せ場のつるべ打ち。秩序どころか、さらにカオス化が加速しているのでは?と思ってしまうくらいだ。
そう、作品全体としては秩序を否定していないのはもちろん、カオスなものをも全否定していないのだ。

ところで思い出してほしい。我々が子供の頃、ごっこ遊びしたり玩具で遊んだり、好きな作品のこの先の展開を考えて遊んだりしてた頃を。
その時、「作品としての完成度を上げなきゃ」などとは全く考えず、心の赴くまま足して足して足して遊んでいただろう。
そこに引き算(秩序化)はなく、足し算(カオス化)があった。
これは創作…というよりは、その前段階にある「想像」ではないか。
創作の過程においては多くの場合、不要な部分の切り捨て、つまり秩序化が必要となる。絵だったら1枚、映画だったら2時間の映像、小説だったら1冊(でないことも多いけど)。作品の完成度を高めるため、余分なものは捨てなければならない。事実、見せ場山盛りの本作でさえ、ゲストキャラの登場といったアイディアが制作途中で捨てられたことが明かされている。
しかし、創作の前段階となる「想像」は、ものが増えることはあっても減ることはない。忘れることはあっても想像したことはなかったことにはならず、ひたすら蓄積していく。
つまり、想像とはカオス化と結び付けられるものではなかろうか。取捨選択してなお要素がとても多いこの作品は、カオスの元たる「想像」を肯定しているのではなかろうか。
そのことを考えると、終盤の新合体のつるべ打ちが、まるで子供がまだ見ぬ新合体を玩具で試したり脳内に思い浮かべたりして、想像しながら楽しく遊んでいるような光景にも見えてくる。

本作の後半で、怪獣少女アノシラス(2代目)により、「人間は虚構を信じることができる唯一の生き物」だと語られる。
国家など、形のない概念は極論すれば虚構の産物、想像上のものにすぎない。だがそれを信じて皆の共同幻想とすることで、それは「ある」ことと同じになるのだ。(「国家は物理的には存在しない」ならまだしも、「国家は存在しない」と発言すれば、かなりの変人と見なされるだろう)
同様に、裕太や六花達はアカネに、蓬や夢芽達はグリッドマンによって創造された被造物であり、さらにメタ的にはアカネも含め創られたキャラクターにすぎない。
しかし、彼らを創造した創り手と我々受け手がその虚構を共有し、彼らを実在の人間と同じように認識する。頭では脚本に沿って動くキャラクターだと分かっていても、心のどこかでは彼らを本当に存在する人間のように感じてしまうのだ。
私は本作に出てくる人物達が皆いとおしく思える。ラストで日常に戻ったグリッドマン同盟やガウマ隊はこれからも楽しく過ごしてほしいと思えたし、特に裕太と六花の告白シーンには悶えた(読者の皆さんもそうでしょう?)。これは彼らが架空の存在だとわかっていながらも、一方では単なるスクリプトと絵と演技の塊ではない、生きている存在だと認識しているからだ。
これは、『SSSS.GRIDMAN』や本作で、六花や蓬などが自分たちが創られた存在だと知らされ衝撃を受けても全てを放棄せず、これまでと同じように自分の人生を生きているのとイコールだ。
『SSSS.DYNAZENON』の世界が生まれて恐らくそれほど経っていないことと、その世界に生きる夢芽が数年前に姉を亡くしているという一見矛盾する事実は、両立しているのだ。
同じように、例えば半年しか連載していない漫画で「10年前の出来事」が語られても、読者はそういうものとして認識する。
実体のない概念を想像し、それを「ある」と認識することで人類は発展してきたし、あまたの創作物を享受してきたのだ。

また、本作『グリッドマン ユニバース』まで続いてきた『SSSS.GRIDMAN』『SSSS.DYNAZENON』は、特撮作品『電光超人グリッドマン』を原作とするシリーズであり、特撮が元になったアニメ作品だ。
特撮ものの中でも巨大特撮は、ミニチュアの中に立つ着ぐるみを「ビル街や山の中に立つ巨人や怪獣」に見立てることで初めて成立するジャンルである。
そしてアニメというジャンルは突き詰めるとパラパラ漫画であり、たくさんの絵の蓄積でしかないものだ。
どちらも、制作者が想像力を働かせ作品を作り、また鑑賞者が想像力を働かせ「これは本当に存在するものだ」と信じることで初めて成立するジャンルである。
「特撮を原作としたアニメ」であるこのシリーズが想像力について語るのは、ある意味必然と言えるのではなかろうか?
そしてグリッドマンのIPを持ち、本作をTRIGGERと共同制作しているのは円谷プロダクション。その言わずとしてた代表作である初代『ウルトラマン』には、「空想特撮シリーズ」の副題が付いている。ウルトラシリーズをはじめ、円谷プロはイマジネーションの奔流たる「空想特撮」作品を作ってきた。豊かな想像力によって紡がれた物語を創意工夫により実体化し、それにより視聴者の想像力を刺激する。本作もまた、今まで見たことないような映像が確かな説得力を持って表現される。宇宙そのものがグリッドマンの形になっている……笑ってしまうような現象なのにどこか美しくもある。本作はTRIGGER作品であると同時に、やはり円谷プロの血も濃く流れていると思うのはそういうところだ。
子供が考えるような突拍子もない奇想天外さにディテールが与えられ、完成度の高い作品となる。円谷プロ作品は創り手の想像力が作品をより良いものとしてきた典型であり、本作もその系譜上にある。

最後に、『電光超人グリッドマン』から始まるグリッドマンの一連のシリーズにおいて、もうひとつ重要なテーマである友達や仲間との繋がり・絆がある。これと想像力との関係について考えてみたい。
想像力とは、国家といった概念や架空のものを認識したり、新しくものを考えたりするということのみには留まらない。突き詰めれば、眼前に存在するもの以外を考える力だ。
高度な動物にも身近な存在への共感力はあるが、眼前に存在しない他者を想うには、目に見えないものを認識する力、想像力が不可欠ではないだろうか。
意中の人に彼氏ができたのではないかとやきもきするのも。
今は遠く離れて生きている友達のことを想うことも。
自分が独りじゃないと気付くことも。
全て、想像力から始まるのではないだろうか。
怪獣少女(2代目)が語った、人が信じられる「虚構」には、「目に見えない人との繋がり」も含まれていた。
人は想像力があるからこそ、他者との繋がりを感じられるのだ。

 

作中に、台本の制作過程というかたちで「伝えたいこと」と「楽しませること」の間の葛藤がメタ的に挿入されていたこともあり、この作品のテーマとは何か?を自分なりに考えてみた。
完成前、一番伝えたかったことであるアカネの記述を一度は捨てた六花が台本を書き直したことは、きっと本作でも試行錯誤の末、伝えたいテーマをなんとか入れることができたということを示唆しているのだろう。
ラストの告白前、六花が「伝えたいことがちゃんと伝わったか不安、でも笑ってもらえたからいいか」という発言も、雨宮監督らの自己投影が含まれているのだろう(実際、TSUBURAYA IMAGINATION内のインタビューで似た趣旨の発言をされている)。
でも、それが制作陣の意図そのままなのかは分からないが、自分には伝わったよ、と言いたい。
そして、一度は完結し、それ以上動き出すことがないかもしれなかった作中の人物たちと再会できたことを祝いたい。
早速2週目特典のボイスドラマで語られているように、またどこかで再会できるのを期待しつつ、彼らがそれぞれのユニバースで元気にやっていることを想像し、そして祈りたい。
久しく会っていない現実の自分の友達にも、また会いたくなった。会いたいな。

 

 

【ネタバレなし】シリーズ未見のあなたでも『グリッドマン ユニバース』を観るべき4つの理由

グリッドマン ユニバース』、最ッッッッッッッ高でしたね……。



Filmarks初週満足度第2位を記録するなど大好評であり、オタク界を賑わせています。

しかし、こう思う方もいるはず。「この映画評判いいからちょっと興味あるけど、テレビアニメの続編なんでしょ?予習してから見に行くの、正直めんどくさいし時間もないな……。まあ今回はスルーでいいか。」

でもちょっと待ってください!確かに本作はテレビアニメ『SSSS.GRIDMAN』および『SSSS.DYNAZENON』のクロスオーバー続編であり、両テレビシリーズの登場人物が続投します。

そう……そうなんですがそれでも私は伝えたい!

「たとえテレビシリーズ未見でも、『グリッドマン ユニバース』は楽しめる、観に行くべき作品である」と。

念のため伝えておくと、テレビシリーズの前述2作品を追えるなら、そうした上で観賞したほうがよりキャラクターの心情や世界観を深く理解できるのは間違いありません。

しかし、「テレビシリーズを追った上で観賞したほうがいいけど、時間がない・気力がないetc…から映画もスルーで」とお思いの方。
初見いきなり映画から入る価値はあります。
以下、その理由を挙げていきたいと思います。
「テレビシリーズのあらすじやキャラクターをざっくり説明します」という趣旨の記事ではないのでご注意ください。

 

①ド迫力の映像表現。

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この予告動画だけ見ても分かると思いますが、本作は巨大ヒーロー&巨大ロボットが怪獣と戦うシーンが見せ場となる作品です。

監督の雨宮哲さんがしばしば言及していますが、これらの戦闘シーンはウルトラマンなどの特撮ものの表現を参考にしており、手書きの作画と3DCGを組み合わせ、人間の視点から見上げるようなカメラワークなど、迫力ある表現がされています。

そして各テレビシリーズは当然、主にテレビやスマホの画面で視聴するものでしたが、今回は映画館の大きな画面で見ることができます。

デカいものはデカい画面で見てこそです。

スタッフの創意工夫が詰まったド迫力の画面を、ぜひ劇場で体験してみてください。



②主人公の心情を追体験できる。

『SSSS.GRIDMAN』の主人公であり本作の主人公でもある響裕太は、テレビシリーズではグリッドマンと融合し、さらに友達の内海将、宝多六花と協力して怪獣たちと戦い、平和な日常を得ることができました。

しかし、とある理由により裕太は戦いの日々の記憶をすべて失っている状態です。

これはある意味で、初見であり作品の基本設定を知らない初見視聴者と状況が一致するのではないでしょうか?

作中で、文化祭でかつての戦いを劇にして演じようという流れがあるのですが、裕太はかつての出来事を覚えていないため劇の台本を読み、そこで裕太とともに初見の視聴者でもテレビ版であった出来事についてはざっくりと知ることができます。

しかし、知識としては知っても実感としては知らない。これはまさに裕太が本作で置かれている状況と同じ。初見の方のほうが、かえって裕太に感情移入できるのではないのでしょうか。

そう、初見「でも」ではなく初見「だからこそ」のメリットもあるのです。


③作品としての普遍性。

グリッドマン ユニバース』は、バトルが盛りだくさんでめちゃくちゃ楽しい作品ですが、それだけの作品ではありません。
「ヒーローとかロボットとか……そういうジャンルものが好きな人だけが楽しめるやつでしょ」とお思いの方もいるでしょうが、心配ありません。


等身大の高校生たちの青春模様も、上記のような派手な描写に並ぶ本シリーズの重要な要素です。
このシリーズでは普通のアニメよりも自然でリアルな日常描写が追求されており、「こういう会話、あるある」と思わされてしまうことも少なくありません。
そしてこの映画では、『SSSS.GRIDMAN』では示唆されるに留まっていた裕太と六花の恋模様が本格的に描写されます。
そのじれったさにキュンキュンしたりニヤニヤしたりすること間違いなし!


そして恋愛だけでなく、登場人物たちのなにげない会話や仕草で、それぞれの目に見えない繋がりが描写されます。
たとえ前作・前々作を観ていなくても、彼ら彼女らの絆を感じとることができるでしょう。

また脚本も巧みであり、非常に多くの要素を的確にさばいており、「あれ?今あの人はなんでここに?」というように混乱することはありません。

そして中盤以降の展開には、それまでなんとなく見ていた方も思わず引き込まれ、「映画体験」に没入することでしょう。


バトル描写やドラマ描写の更に奥底にはテーマ性、監督らスタッフが伝えたいであろうことが忍ばされています。
この記事では、あえてそれが何であるかは説明しません。劇場で観賞し、理性で、また感性で、読み取ってみてください。


④熱量に震えろ。

私は、作品を楽しむこと=作品を理解することだとは考えていません。

例えば、本を読んだりしてある程度学習しないと、細かい演出技法についてなんとなく感じることはできても理解することは難しいでしょう。それでも多くの人は様々な作品を観て、楽しんでいます。

同様に、基本設定やキャラクターがこれまでどういう行動をとってきたかを完全には理解できなくても、作品を楽しむことはできると思います。
その何よりの証拠が私自身で、ツイッターのTLなどで評判のいい作品に、シリーズものであっても予習をせずに飛び込んだりすることがよくあります。 その場合、確かに全てを理解することはできませんが、優れた作品ならばその完成度や乗せられた熱量が伝わってきます。
これまでの作品を履修していない分、体験の新鮮さに限れば履修済みの人より優れているとすら言っていいかもしれません。
そして、『グリッドマン ユニバース』は初見での観賞でも楽しめる、凄まじい完成度と熱量の作品だと考えています。

なにより、作品が映画館でかかっているのは今しかありません。
うまくいけばロングランするかもしれませんが、基本的には同じ映画は1ヶ月〜長くても3ヶ月ほどしか上映されません。
もちろんしばらくすれば配信や映像ソフトも出るでしょうが、どうしても映画館での体験とは異なってしまいます。
「テレビシリーズを観てから……あっ、上映終わっちゃった」となるよりは、今すぐ映画館に飛び込み、そして何も知らない状態で映画体験を浴びてみてはいかがでしょうか。

 



『シン・ウルトラマン』感想~あなたは新作なの?リメイクなの?~

3回、観た。面白かった。もしかしたら次もあるかも。

だが、なんだろう、このモヤモヤは……。

公開から2ヶ月近くが経ち、肯定・否定含め様々な評が出回ったが、やはり自分の言葉を紡げるのは自分だけだ。そう思って、今更『シン・ウルトラマン』の感想を書く。

特撮面

まず、弊ブログらしく?、特撮パートの映像面について。
この点について言及している人をあまり見ないのだが、本作はアナログ特撮を用いたシーンがかなり少ない。パンフレットによると、本作の特撮パートはほとんどがCGだという。ミニチュアを用いたと明言されているのは、巨大浅見のシーンくらい(ビルがパンチされるカットの内引きだろうか)。
あと、某所で、ネロンガのシーンで送電線も一部ミニチュアとか聞いたような……。ソースがある人、ご一報ください。
公開少し前、メインスタッフのクレジットが判明した時、特技監督の肩書きや、『シン・ゴジラ』で美術監督を務めた三池敏夫氏の名前がなかった(実際のエンドクレジットには、特撮パートの特殊美術で名前があったが、シンゴジより小さい役職ではあったであろう)時点で「もしや……」と思っていたが、当たってしまった。
シン・ゴジラ』では、今までのゴジラとは異なる、CGや実景合成を主体とした特撮パートが作品のリアリティに大きく寄与していたが、その一方で、ヤシオリ作戦時に壊されるビルの室内はじめ、要所要所で挿入されていたミニチュア特撮のカットがCGの不得意部分を補い、実在感を高めていたといえよう。
翻って『シン・ウルトラマン』には、そうしたアナログ特撮のカットが、『シン・ゴジラ』に比べてもかなり少なくなっている印象だった(まあ、気づいてないだけで実際は印象より多い可能性も大いにあるが)。

庵野さんも、樋口監督も、尾上准監督も、アナログ特撮とCGそれぞれのメリット・デメリットは熟知しているはず。そこから推測すると、本作のアナログ特撮の少なさは、やはり予算の少なさに起因するのでは? コロナ禍の延期に伴い追加予算が出たとはいえ、『シン・ゴジラ』より少ないことがほぼデザインワークスにて名言されている。

では、CGはどうか?
残念ながら、『シン・ゴジラ』に比べて、技術的にどうであるかはともかく、パッと見の印象としては、リアルさ・実在感に欠けているように思えてしまった。
もちろん、(多分)シンゴジより予算が少ないのにもかかわらず出物の量や特撮パートの時間・シチュエーションが単純に多い。デザインワークスで言及されている、公開延期に伴いスタッフが集め直しになった点なども含め、大小さまざまな苦労があったことだろう。しかし、リアリティラインをシンゴジより低めにしているとはいえ、「現実にウルトラマンがいる」と感じられるようなカットが少なかったのも事実。前述したミニチュア部分の少なさも、そうした印象に拍車をかけているように思える。

とはいえ、「大作邦画のクオリティで」「洋画的ではない」ウルトラマンを実現させたことは素晴らしいと思う。
今もって謎の映像『ULTRAMAN n/a』。あの映像のCGは非常にクオリティが高く、今もって色褪せないが、あれは生物的でヌメッとしたウルトラマンやクリーチャー然とした怪獣など、どちらかというと「洋画っぽい」センスで作られていたと思う。
対して『シン・ウルトラマン』は、フルCGではありつつも、初代に近く、そこから更に成田亨のデザインに近づけたウルトラマンや、ちょっとアニメチックな禍威獣・外星人など、洋画っぽさとはかけ離れている。
少々ナショナリズムぽい結論だが、日本的なセンスで一般向けの映像を作るという点に関してはしっかり成功していると思うし、「世界のマーケットに向けて日本的なイズムを持つヒーローを押し出していく」という、円谷プロ・塚越会長の姿勢とも一致しているように感じられる。
個別感想としては、ネロンガ戦のスペシウム光線ケレン味全開の樋口イズムが感じられて良かったし、ザラブ戦の躍動感は本作の白眉だ。メフィラス戦は……もうちょっとなんとかならなかったのかな……。ただ、音ハメは気持ちいい。


ところで、時々こういう意見も耳にする。「ぶっちゃけニュージェネウルトラマンのほうが映像凄くない?」と。
これに対しては、「ニュージェネは新しい映像を追求している一方、『シン・ウルトラマン』は初代『ウルトラマン』当時の感覚を現代に再現しようとしているのでは」という反論(でもないか)が、しばしばなされる。
自分も、まあそんなところだろうと思う。
しかし、こうも思うのだ。「懐古主義じゃない?」と。

あなたは新作なの?

本作の「懐古主義性」は、特撮パートに留まらず作品全体を貫くものである。
そもそも本作は、『ウルトラマン』からいくつかのエピソードを抜き出し、現代的かつ一本の映画として筋が通るようにアレンジして繋いだような構成になっている。ザラブパートなんて、ほぼ「遊星から来た兄弟」まんまだ。
これは、初代ゴジラや84年版ゴジラのエッセンスを汲みつつ、全く新しいゴジラにもなっていた『シン・ゴジラ』とは対照的だ。
庵野さんはゴジラには相対的に思い入れが薄いのに対してウルトラマンはとても好きだから、原点をあまりいじくり回せなかったのかなーとか想像してしまうが、経緯さともかく、結果として「まあ、初代マンを「人間との友情」テーマに一本にまとめるならこうなるよな」という「妥当」感を覚えてしまった。「妥当」にも行けない幾多の作品からすると贅沢な悩みではあろうけど……。
初代マンの完成度は現代にもそのまま持ってこれる、という矜持が感じられるのは非常にグッとくるものではあるが……うーん……。まあ、ウルトラマンなんて一度も見たことないよ、という客も大いに対象にしてるものだから、このモヤモヤ感はオタク特有のものかもしれない。

リメイクなの?

「シン・ウルトラマンは初代マンそのまんますぎる」と書いたが、一方で、初代『ウルトラマン』特有の魅力を現代にそのまま再現できているかというと、それもやや疑問符がつく。
初代のもつ上品さ、牧歌性……etcは、高度経済成長期という時代背景があってのものでもあろうし、完全再現は難しいこともわかるのだが、それにしても、「何か」が決定的に違う気がする。
細かい要素の積み重ねが総体としての作品の印象を形作るのであり、細かく分析するのは容易ではないが……まずひとつに、禍威獣を生物兵器と位置付けたことによる、怪獣のバラエティ感の欠如。ひとつには、前の理由と連動するが、オムニバスのテレビシリーズと映画という形式の違いに起因する差異。ひとつには、民間人や子供のゲストの不在。ひとつには、中途半端にシンゴジに寄せたような、官邸や近隣諸国の描写……。
あるいは、私が初代マンを見たときに感じた「突拍子もない絵面が、確かな説得力をもって存在しているという、画的なセンス・オブ・ワンダー」も欠けていたかもしれない。前述の話にも繋がるが、「初代マンを現在の映像技術で作ると、まあ、こうだよな」的なか「妥当」感がここにも漂う。初代マンらしい新鮮さを得るためには、かえって初代マンを真似てはいけないという逆説……。
まあ、同じ人が作った複数作品ですら別の印象になるのだが、違う人が作った作品で印象が変わるのは当然かもしれない。庵野作品らしい理屈っぽさや、初代の小洒落たユーモアの代わりに挿入されるハードSF的な専門会話など、初代にはなくて『シン・ウルトラマン』にある魅力もある。
しかし、「新作」にも「リメイク」にもなりきれていないような中途半端さを、『シン・ウルトラマン』に覚えてしまうのであった。
原点へのリスペクトを込めることと、新しい作品を作ることは、相反するものではなく両立するはず。事実、ニュージェネのウルトラマンは、作品によってうまくいったりいってなかったりするが、それに挑戦してはいる。
しかし、『シン・ウルトラマン』に感じたのは、リメイクと新作の「両立」あるいは「止揚」ではなく「どっちつかず」であった。

これからのウルトラマン、そして、特撮

さて、円谷プロの親会社であるフィールズの中間決算資料に、一般向けウルトラマン作品をあと2つは作る計画があると書いてあり、ファンの話題を呼んだ。*1
また、デザインワークスには、実現するかは不透明なものの、シン・ウルトラマン三部作の構想があるという。
だが、推測するに、前者の一般向けウルトラマンと、後者の三部作は、部分的には一致しても全面一致ではないのではないか?
フィールズの中間決算資料によると、一般向けウルトラマンの予定は2024年と2026年。しかし、三部作のふたつめである「続・シン・ウルトラマン」は、庵野監督の『シン・仮面ライダー』という予定や「しばらく休みたい」らしいことを鑑みると、実現するにしても公開が2026~27年になってしまうのではないか。
さらに、2024年公開を目指すなら今ごろには既に始動していないといけないことからも、少なくとも2024年の一般向けウルトラマンは、少なくとも庵野作品ではないのではないか。
いや、そうであってほしい。
無論庵野さんは天才だと思うが、「一般層ターゲットの特撮」が庵野作品だけになってしまうのは、なんとなく不健全に感じる。
そういう意味で、「非・庵野」での一般向けウルトラマンが作られ、さらにヒットすれば、さらにウルトラシリーズ、ひいては特撮という文化の発展につながるのでは?という気がするのだ。
そういう意味で、『仮面ライダーBLACK SUN』や山崎貴監督の超大作怪獣映画(多分あいつだろう)にも期待しているし、庵野シン・シリーズではない一般向け大作ウルトラマンも実現してほしい。
もちろん、「続・シン・ウルトラマン」で庵野さんが「好きにする」のも実現してほしいけど……!

 

関連:よけば初代マンの感想記事もどうぞ。

 

 

shikiponpishyn.hatenablog.com

 

初代『ウルトラマン』にみる、普遍性と時代性

シキポンマニア【誰?】にはご存知だろうが、私は本当に作品を見ていないほうだ。もうマジでびっくりするくらい見ていない。どれくらいかというと、初代『ウルトラマン』だって、総集編ビデオなどで触れてはいたものの、本編を通して見たことがなかったくらいに。
しかし、『シン・ウルトラマン』公開が迫ったため、予習としてこの度、全話を初めて通して鑑賞した。
そして感想は……。


めっっちゃ面白かった…………。


ということで、既に語り尽くされたといっても過言ではない作品である『ウルトラマン』だが、それでも記すことに意味があると信じて、感想を書いてみたい。

優れた作品は「時代性」と「普遍性」を同時に獲得している、というちょっとした持論がある。たとえば『シン・ゴジラ』は、東日本大震災を受けて作られた作品であり、当時の記憶が残る日本人だからこそ深い共感を呼び起こす作品になっていたと同時に、時代を選ばない面白さも備えていると思う。
ウルトラマン』もそういった作品のひとつだと感じる。高度経済成長期に作られた作品ならではの時代性と、今やきっと未来にも通じる普遍性が備わっている。
順序が逆になってしまうが、まずは普遍性だ。ウルトラマンの、赤と銀の巨大な宇宙人というその見た目、そして腕を交差してスペシウム光線をはじめとする様々な光の技を放つという独創性。それは55年を経た現在でも、全く色褪せない。と、いっても、さすがに見慣れたものになってしまってはいるが、当時の驚きは凄まじいものだっただろう。
他にも、青白く光り分身し、さらに脱皮するバルタン星人、奇怪な形状のドドンゴペスター、摩訶不思議な現象を起こすブルトン……などなど、理屈ではなく、「視覚で感じるSF」として、心地よいセンス・オブ・ワンダーを与えてくれる。
センスある会話劇も魅力だ。ありきたりな言葉になってしまうが、科特隊員は本当に生き生きしている。わかりやすくキャラが立っていて、かつ奥行きがあって書き割り感がない。さらに、スタッフも録画で見返すことが容易でない時代に作られた作品でありながら、各話で各隊員の性格にブレがほとんどない、というのも地味ながら凄いところだ。
「奥行きがあって書き割り感がない」のは、世界観にもいえる。
科特隊は、あくまで調査を主軸とする団体であり、怪獣への本格攻撃となると防衛隊が別に出動することも多い(と、いっても、科特隊だけで怪獣に立ち向かうことも多いが)。また、しばしば海外の他の支部から隊員が訪れたり、アントラー回のように海外で任務にあたることもある。最終回では、TV番組でできる範囲で大スケールの話が繰り広げられた。

次に時代性だが、『シン・ウルトラマン』にあたり樋口真嗣監督もしばしばインタビューで語っているが、前向きで陽性な作風が大きな魅力のひとつだ。
クッキリハッキリした画作りもさることながら、仲の良い科特隊メンバー、軽妙なテンポ、多くの話では明快なオチ……など、数多くの要素によって「明るさ」が紡がれている。
そして、その根本にあるのは、人間性、もっというと人間の理性・叡智への信頼ではなかろうか。
これもしばしば指摘されることだが、高度経済成長期の真っ只中に制作され、未来は良くなっていくというのが共通認識になっていた時代、そしてその背後にあった科学の発展のためだろう、「この社会はこれからもっと良くなっていくはずだし、そうあるべき」という感覚にあふれている。
もちろん、ジャミラ回やウー回などで、テーゼに対するアンチテーゼ、自己批判の要素をしっかり入れているのも奥行きにつながっている。しかし、全体を通しては科学、そしてそれを使う人間の理性と善性を自明のものとして扱っていることが読み取れる。
これは、ただのお題目ではない。近年の特撮ドラマは、マーチャンダイジングとの一致性もあり、人間キャラクターの成長や葛藤、関係性の深化を主軸に据えていることが多い。いわば、人間の心情中心の作劇だ。
それに対し、『ウルトラマン』は、「この怪獣・宇宙人が現れ、科特隊はこういう対応をとった。それに怪獣はこうリアクションした」……という、いわば事象を中心とした作劇になっていることが多い。後半に向かうにつれ、キャラクターの心情にフォーカスした話も増えていくものの、それでも前述の「事象」の要素が必ず入っている。
これは、ひいては情によってではなく、理によって話を成立させている、ということではないだろうか。作品が掲げるテーマと作品自体の描かれ方が高度に一致したとき、説得力は何倍にもなる。『ウルトラマン』は、それを実践してるといえよう。
それが最も表れているエピソードは33話「禁じられた言葉」だと考える。少年だけに謎の声が聞こえるというところからどんどん状況がエスカレートしていくも、結局、「子供ですら当然に世界をよくしていきたいと思う」という信念に、メフィラス星人は敗北を喫するのだ。

以下、上記から漏れた感想をぽつぽつ。

★飯島監督の安定感。
ウルトラマン』の監督でいうと、やはり実相寺監督が第一に語られがちだが、自分は飯島敏宏監督も特に高いレベルのエピソードを撮っていたと思う。
製作第一話である「侵略者を撃て!」で『ウルトラマン』の基本を確立したといっても過言ではないほか、ユーモア・会話劇のセンスも抜きん出ていた。
先程も述べたブルトン回の「異次元へのパスポート」も、1966年によくぞここまで……と言いたくなるような、SF性と不条理コメディの融合となっており、特にお気に入りのエピソードのひとつだ。

★好きな怪獣
子供の頃はレッドキングがスキーだったものの、加齢のせいか先程のブルトンや、『シン』でも登場する宇宙人たちのような、有名ではあるもののややいぶし銀なやつらがいいなぁ……と思うようになった。
なんというか、少し硬質で未来感のある話やデザインのほうが好きになるのかもしれない。
ここまで話題に出していない怪獣では、キーラが結構好きである。じりじり目を閉じてにじり寄り、『ウルトラQ』の効果音とともに巨大な眼が発光!かっこいい……。八つ裂き光輪を尻尾にひっかけてしまうところも独特で、中々の良怪獣だと思う。

★特撮パート。
現在のテレビシリーズのウルトラマンは、既に作ってあるビルなどのミニチュアをシチュエーションごとに並び替えて使うことが多い。もちろん予算を考えると仕方ないことなのだが、初代マンは1回ごとにミニチュアをまるごと新しく作っているのでは?としか思えないパターンが多い。ゲスラ回の港というシチュエーションなど、現在は中々見ることができない。
かつての円谷プロは予算管理がしっかりしていなかったことで知られ、無論ビジネス的には良いことと言えないのだが、それでも圧倒される。
また、話数が進むにつれ、ウルトラマンの殺陣がどんどんアグレッシブになっていくのも印象的だった。ケロニア回はベストバウト。



さて、『シン・ウルトラマン』公開がいよいよ明日となった。明日ァ!!?!?!
前述のように高度経済成長真っ只中だった55年前とは違い、低成長・少子高齢化、長引くコロナ禍、さらには侵略戦争……など、何かと不安が多く先の見えない世の中である(無論、当時も色々社会問題はあっただろうけど)。
そんな時代だからこそ、面白い作品であることはもちろん、当時子供だった人や今の子供、そしてすべての老若男女に希望と前向きさを与えてくれる作品になっていることを祈るばかりである。

 

 

それでも批評が必要である理由

最近……というか少なくとも自分がツイッターを始めたあたりからはずっと、世間(ここでいう世間とはオタク世間のことです)では批評家・評論家を毛嫌いする風潮がある。
曰く「シン・ゴジラは批評家が酷評したのにヒットした。やっぱり批評家はクソだ、あてにならない」
曰く「ゴジラKOMは……」「バトルシップは……」「この世界の片隅には……」などなど。
そもそも、他はまだしも『シン・ゴジラ』『この世界の片隅に』はむしろ批評家評も良かったのだが(それぞれキネマ旬報の2016年邦画で2位と1位である)、そうした事実よりも「批評家に酷評されたがヒットした、ので批評家は見る目がないくせに態度だけデカいやつらだ」という「物語」が優先されるほど、批評家、そして批評は毛嫌いされているのだ。まあ、実際、態度のデカい批評家、見る目のない批評家、あるいはその両方を兼ね備えた人もいるんだろうが……。

しかし、声を大にして言いたい。それでも、批評は必要であると。

ひどい批評家がいればその批評家とその人の書いた批評を批判すればいいだけで、「やっぱり批評という行為自体いらないんだ」ということにはならないのである。オタクの中に犯罪者がいるからとてオタクが全員犯罪者予備軍ということにはならないのと同じだ。

では、なぜ批評は必要なのか?
それについてはプロアマ問わず様々な答えがあるだろうが、そう訓練を積んだわけでもない自分が思うのは、ぶっちゃけ「なめられないため」である。
どういうこと?と思う方も多いと推測されるので、筆者の好きな分野である特撮を実例に挙げて説明していきたい。

時は1970年代後半。
宇宙戦艦ヤマト』が再評価されるなど、アニメが子供だけが見るものから、徐々に大人も楽しめるものへと変わっていった時代である。
その流れを受け、初期のゴジラシリーズや、『ウルトラQ』『ウルトラマン』『ウルトラセブン』の、いわゆる昭和一期ウルトラシリーズが再評価され始めた。
同人誌文化が盛り上がりを見せ始め、商業でも思春期世代を対象とした、今でいうMOOK本が出始める中、1978年には『ファンタスティックコレクション 空想特撮映像のすばらしき世界 ウルトラマン/ウルトラセブン/ウルトラQ』(ファンコレ)という本が出版され、2年後には現在まで続く『宇宙船』が創刊。
そうした本の中で、先行していたアニメに続き、今まで子供向けのものにすぎなかった特撮ものを、文芸的、あるいは芸術的な観点から評価する試みがなされたのだ。

そうした大人のファンダムの盛り上がりが『ザ☆ウルトラマン』『ウルトラマン80』の製作につながっていったわけだが、それだけではない。
初期のウルトラシリーズが、たんに当時の子供にブームを巻き起こした人気作品であるだけでなく、後の世から見ても、また大人から見ても楽しめるものであり、かつ単純な作品ではなく高いSF性や社会問題の反映、高度の特撮技術が織り成す、文字通り「不朽の名作」であるという評価が定着したのである。
本日まで、そういった評価がおおむね反映されているといっていいだろう。

ここから何を学びとれるのか?
つまり批評の役割の一つとは、時代の象徴としてのみ見られている作品を、時間を超えても通じるものとして定着させることなのではないか。
単なる見世物ではなく、文化的・芸術的な側面からも素晴らしいものである、あるいは見世物ではあっても非常にレベルの高い見世物であると。

70年代後半の特撮再評価の話に戻ろう。
先程、「初期ウルトラシリーズが大人によって再評価された」と述べたが、公正を期すため、それらの負の側面についても述べねばなるまい。
高く評価された第一期ウルトラシリーズと対比される形で、『帰ってきたウルトラマン』から『ウルトラマンレオ』までの第二期ウルトラシリーズが、非常に低く評価されてしまったのだ。
ウルトラマンタロウ』に至っては、前述のファンコレでは「怪獣と人間のドラマが分離している」「タロウの脚本は僕にも書けるという冗談が流行った」と、散々な言われようだったとのこと。
ここに批評の落とし穴がある。AとBを体系だてて比較することは、それぞれの特徴がより浮き上がる一方、気をつけないと必要以上に片方が貶されてしまいかねないのである。

だが、これだけでは終わらない。
それから少しして、あまりに低く評価されてきた第二期ウルトラシリーズの再評価が始まったのである。
1984年の「宇宙船」には、すでに第二期ウルトラシリーズの再評価という特集が組まれていたようだ。
当時作品を夢中になって見ていた子供が次第に成長し、発言権を得ていったこともあって再評価の声は次第に大きくなり、1999~2001年からはそれらの作品群を再検証するMOOK本のシリーズが出版。
現在では、「昭和二期シリーズは駄作」というかつての風潮は完全に払拭されたといえよう。
また、こうした「一時期は古い作品と比べられる形で不当に低く評価されていた作品が、時間を経て高い評価を受けるようになる」例は、チャンピオン期やVSシリーズのゴジラ、初期平成ライダーなど特撮だけでもいくつも見られる。

ここから言えることは、先行する批評がおかしいと感じたら、それに反論すればいいということだ。
「批評家は見る目がない」と思考停止に至るのではなく、先行する批評に熱意と理性をもって一つ一つ反論し、あるいはそれを上回る批評を書いて公開する。そうした行為を積み重ねていくことにより、気に入らないムーブメントを塗り替えていくのだ。

まとめると、私の思う作品批評の役割は
①作品を単なるムーブメントや消費物としてだけでなく、時を超えた価値のあるものだと主張する
②不当に低く評価されている作品をひっくり返す
ことである。
こうした意義を先程はまとめて「なめられないため」とした。

最後に、これらを2つ同時に成し遂げたブログを紹介したい。
ほあしさんのブログ「Black and White」である。

Black and White (hatenablog.com)
ここでの批評の対象は、言わずと知れた週刊少年ジャンプのバトル漫画『BLEACH』である。
今でこそ終盤のアニメ化や新作読み切り、同世界観の別シリーズなど大きな盛り上がりを見せているが、2010年代前半ごろはネット上で非常に低い評価をされていた。
「作者は何も考えずライブ感で描いている」「オサレポイントバトル」など……。
このままでは、無論当時の人気はあっても、時代の徒花として消費されていくだけの可能性もあったのではないか。
しかし、このブログではそうした風潮をひっくり返すべく、しっかり設定を練り込んでいないと仕込めない、作品の奥底の伏線や反復されるメタファー、先行作品からの影響から通底するテーマまで、あらゆる角度から批評が行われている。
そして、すさまじいことに、作者・久保帯人先生自身からお墨付きをもらっているのだ。

『BLEACH イラスト集 JET』発売記念 久保帯人先生サイン会 超個人的レポート - Black and White (hatenablog.com)
昨今、当時の評価が嘘のように『BLEACH』が盛り上がっているのは、当時のメインターゲットたる中高生が大人になり、ネット上の多数派になったのももちろん大きいだろうが、このブログが侮辱的評価を払拭したのも決して小さくないと思っている。
このブログはそういう意味で、先程の①および②を同時に達成したといえるのではないだろうか。

さて。
70年代のオタク文化黎明期はおろか、10年前と比較しても更に深夜アニメやゲームをはじめとした、いわゆるオタク的な作品は人口に膾炙しており(陽キャも配信で深夜アニメを見る時代である)、オタクであるだけで低く見られたりすることはほぼなくなった。また、子供向けコンテンツがジャリ番などと呼ばれていた時代もとうの昔である。
そうした意味で、「俺の好きなものをもっと世間に評価させてやる」といった、ある意味でネガティブなモチベーションを駆動させる必要は減っただろう。
だが、個々の作品ではどうか?
不当に低く評価されていると感じる作品。
人気はあるが、30年後には歴史の一部以上のものにはなっていなさそうな作品。
ネットミームとして消費されて終わりそうな作品。
そして、日の目を見ない埋もれた名作。
あなたが好きな作品で、そういうものの一つや二つは容易に思い付くのではないだろうか。
なら、批評を始めてみよう。
たまには「アオいいよね……」「尊い」「こういうのでいいんだよこういうので」だけではない世界に、足を踏み入れてみてはいかがだろうか。

 

 

 

参考

「特撮映画や『ウルトラマン』を論ずる」ことの原点

https://shimirubon.jp/columns/1674312

 

帰ってきたウルトラマン』ドラマ論

https://gamp.ameblo.jp/tabitto339/entry-12442332970.html

『現実でラブコメできないとだれが決めた?』ラブコメ讃歌にして創作讃歌。

「現実とフィクションは違う」というのは、正解であるのと同時に間違いであると思う。もちろんほとんどの人は現実とフィクションは異なるものだと認識しているが、それはそれとしてフィクションは現実の人々によって創られるものだし、フィクションは現実に影響を与える。ONE PIECEを読んで海賊になる人が(多分)いないのは、海賊が現実には犯罪者であると読者が認識しているからだ。スポーツ漫画を読み、題材となるスポーツに魅力を感じそのスポーツを始める人は少なくない。

また、創作物に感銘を受け、好きが高じて自らも創り手に回る者も多い。『シン・エヴァンゲリオン劇場版』が記憶に新しい庵野秀明監督は、好きな作品を自分なりに咀嚼し自らのものとする、そうしたオタククリエイターの代表格だ。そして、今では『SSSS.GRIDMAN』をはじめ、そのエヴァに強い影響を受けた作品もある。創作による「好き」の線は連なっているのだ。


……と、ここまでは弊ブログらしい、特撮ものに近いジャンルのアニメだったが、今回はラノベ、それもラブコメの話。
『現実でラブコメできないとだれが決めた?』(略称:ラブだめ)の話だ。

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元からラブコメが好きなのと、通勤中などに手軽に摂取できる娯楽を求めているのもあり、ここしばらくラブコメもののライトノベルをたまに読んでいる。
そうした中で一際面白かった、否、厳密には一発目でいきなり大当たりを引いたのがこの『ラブだめ』であった。

あらすじは大体こんな感じである。
大のラブコメ好きの長坂耕平には、妹も幼馴染も現役アイドルのクラスメイトもいないし、ラブコメ的な展開も自然には起こらない。しかし彼は特技のデータ分析を活かし、現実世界においてラブコメを実現させようとするのだった……!

自分の筆力の拙さにより魅力を伝えられていないことと思うが、このライトノベルは面白い。「作為的にラブコメ展開を起こす」というコンセプトからして面白いし、かといってコンセプト負けもしていない。ラブコメ展開を起こすための手段がデータ収集、あるいは培ったデータを基にした人々の心理的誘導などの作戦というのも、ケイパーもの的なワクワク感がある。もちろん、ひょんなことから計画に協力する「共犯者」となった、クールで理屈屋な上野原彩乃(1巻表紙の人)や、現在耕平の意中の相手である、「ヒロイン適性S」というほど二次元美少女的な挙動を誇る(?)清里芽衣をはじめ、各キャラクターも魅力的だ。謎や伏線とその鮮やかな回収も見所である。もちろん、本作自体がラブコメである以上、恋愛レースでどのヒロインが勝つか予想したり、異なるヒロインを推すファンと罵り合う語り合うのも一興だろう。わかりやすい難点といえば、耕平の台詞や一人称視点の地の文が、ネットスラング多用でゾワッとくるところだろうか……(まあ、それは彩乃にキモいとか言われることで相対化がなされているし、読んでるうちに慣れる)。

しかし、私が真に感銘を受けたのはこの作品のコンセプト=耕平の信念だ。
耕平は過去にある挫折を経験したが再起し、現実にはそうそう起こり得ないラブコメ的展開を現実に起こすことを目指す。
これは言ってみれば、「創作に影響を受けて良い方向に現実を変えようとする」ことでもあるし、また「過去の創作に影響を受け、リスペクトとオマージュを捧げながら新しく創作をする」ことでもあるのだ。
本作は、ラノベを中心に、大量の実在するラブコメネタが挿入されている。オタクネタの多い作品など珍しくもないが、重要なのは耕平がただラブコメを嗜んでいるだけではなく、それに大きな影響を受け、ラブコメのような理想の青春を実現させんとしている点だ。
やり方こそ常軌を逸しているが、大好きな創作物に「自分もああなりたい」と思い、またそれを実現させるために努力する。これは、創作物に良い影響を受けて走り出す人への限りない肯定なのだ。

かつ、耕平がラブコメ大好きであるというのみならず、作品そのものにラブコメへの深い愛が感じられる。もちろん作者本人がツイッター等でラブコメ好きを公言しているというのもあるが、そこまで詳しくない自分でも「本当に好きなんだろうなあ」と肌で感じるほどにラブコメへの偏愛がこの作品からはにじみ出ている。挫折からの問題解決、過去語り、メインキャラからは少し離れた位置のサブキャラ……など「この手のジャンルあるある」を、自ら説明しつつ陳腐にならないように作中に取り入れている。先行作品を尊重しつつ、新たにアレンジを加え魅力を引き出す。作者のラブコメへの深い造詣があってこそのことだと思う。
また、こうした作品が作られるということ自体、ジャンルの歴史と発展のあらわれであろう。ファンタジー要素のないラブコメもののラノベが流行ってからぼちぼち10年以上が経ち(※ 筆者はラノベ史に詳しくないので、「そういえば俺妹とかとらドラとか流行ってからしばらく経つな……」というなんとなくの印象です)、こうした作品に魅せられた人が創り手に回る時代がやってきたのだ。
閑話休題。ラブコメに影響を受け、ラブコメへの愛を捧げながら新たなラブコメを作り出す、というのは、耕平の信念であり、かつ作品全体に貫かれた芯である、といえよう。

創作は、「実在しないものを作り出す」ということだ。現実と虚構を等価に信じることができ、フィクションのキャラクターに実在の人物と同じように強い感情を持ったりする人間だからこそ、創作に影響を受けたり、自らも創り手に回ったりすることが起こるのだ(またエヴァネタ!?)。
この作品は、「ラブコメの影響を受けて現実で行動を起こす」「ラブコメの影響を受けた新たなラブコメを作る」という二側面において、限りないラブコメ讃歌となっている。それと同時に、ラブコメだけでなくより普遍的な「創作に良い影響を受ける人」讃歌、そして創作讃歌となっているのだ。


何を言いたいかというと、
5/18に3巻が出るので買ってね!!!!!ってことでした。
1&2巻のほうはAmazonで50%ポイントバック中だそうです(5/16現在)(なんかうまく貼れなかった)。

 

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