※"中の人"について言及しますが、特定するような言及はありません。
※ここでは、いわゆるアバター型よりは、キャラクター型のバーチャルyoutuberについておもに言及します。
※オレ、言うほどバーチャルYoutuber追ってない。あとアイドルに言及するけど、アイドルについてもそんなに詳しくないままふわふわと語っている。
アイドルにセクハラリプライを送る……というほど極端ではなくても、アイドルにもおそらくアイドルらしくない側面がある、一人の人間である、ということを、頭では理解していても感覚では分からない人もいるだろう。最近アイドルの不祥事がいくつかあったが、それで神話が崩壊してしまった、と思う人もいることだろう。
アイドルはいわば、ある人をその名のとおり偶像として祭り上げる過程である。しかし、今流行の真っ只中のバーチャルyoutuberは、この偶像化をさらに推し進めたものなのではないか?
バーチャルyoutuberとは、対象の人間性の一部のみを抽出し、強調し、キャラクター化させる試みである。
これは、前述のアイドルはじめ芸能人などの有名人、さらには自分の友達など誰に対しても行われることであるが、バーチャルyoutuberは見た目そのものを(アニメ的な)キャラクターにするということでその側面が強調される。
バーチャルyoutuberにおいては、「人間をキャラクターとして見る」という呪術的な行為が発生するのである。
「バーチャルyoutuberはアイドルに近い」ということはたまに聞くし、この記事でも書いたが、一番近いのは80年代のアイドルではなかろうか?
「アイドルはトイレに行かない」ならぬ「キズナアイはトイレに行かない」である。80年代アイドルも、人間をキャラクターとして見るという点に関しては2000年代以降のハロプロやAKB・坂系列アイドルよりさらに進行していたのではないか。
2000年代以降のアイドルは、多くの場合成長という文脈が付与される。つまり、「最初は未熟だったけど、仲間との絆や挫折・立ち直りを経てアイドルとして立派になる」という物語が付加されるのだ。これは、甲子園球児などのスポーツ選手の熱血・感動物語にも近い。
対して、80年代アイドルは、もちろんアイドルとしての成長はあっただろうが、それは観客が見いだすものであり、それが積極的に打ち出されることはない。代わりに存在するのは、さっきも書いたが――「アイドルはトイレに行かない」という幻想なのだ。
もちろん、観客も実際にはアイドルはトイレだって行くし、スーパーで買い物するし、人によっては彼氏もいるかもしれないということは分かっている。が、それをあえて見てみぬふりをし、「我々観客とは異なる、アイドルという生き物」として幻想を描くのだ。これはアイドル自身とそのスタッフ、観客による共犯である。
バーチャルyoutuberの話に戻る。我々視聴者も、かつてのアイドルに対して行ったのと同じように、「実際には中の人がいる」ということを知りつつ、あえて見てみぬふりをし、彼女らは人間ではなくキャラクターであると見なし、動画や生放送を楽しむのである。
それでは、人間とキャラクターの違いとはどこにあるのか。
私はこう考える。「あらゆる多面性を含んだのが人間であり、一部の強調された側面しか持たないのがキャラクターである」と。
人間はTPOによって態度を変えるし、それぞれ独自の思考ロジックを持ち、また良性と悪性が同居している。要するに多面的なのだ。
対して(特に美少女ものの)キャラクターは、口調は形式的に強調されているし、どのような行動をするかは(時にエキセントリックなまでに)突飛なものとなっているのだ。
いや、落ち着いてほしい。多分読者の皆様は、そんなことねーぞと思ってることだろう。事実、そんな単純には言い表せず、キャラクターを生き生きとしたものにするために多くの創作者たちが努力をしていることを私は理解している。しかし、あえて単純化のためこう言うことを許していただきたい。
もちろん千差万別ではあるが、特定のキャラクターのテンプレートが知られていることは確かである。ツンデレなどが特に有名である。ツンデレ属性(必ずしもツンデレでなくてもいい。特定の属性であるキャラクターについて)と呼ばれるキャラクターの中には、いかにもすぎて一面的……というキャラを思い浮かべることができる読者も多いのではないか。キャラクター、特に二次元で表現されるものには、そういう側面があるというのを納得いただけただろうか。いただけなかったとしても許してほしい、先に進みます。
そして、バーチャルyoutuberとは、これまで述べてきたように視聴者との共犯において、人間の人間性を捨象しキャラクター化する試みなのだ。つまりどういうことか?
バーチャルyoutuberの、いわゆる"中の人"は、当然ながら多面的で厚みのある存在である。食べ物の好みがあり、通ってきた学校があり、政治へのスタンスがある(これはない人もいるかも)。
しかしバーチャルyoutuber、特に企業勢は、"中の人"にはそれがあっても、自分からそれを表明しないかぎり、それらの多面性はないものとして扱われるのだ。あるのは、各バーチャルyoutuberの動画などにおいて現れた性格などの側面、さらに言うとそれらのうちで特に突飛なものだけだ。たとえばのじゃロリおじさんは「世知辛いのじゃ~」という有名な発言やコンビニバイト、電脳少女シロはFPSゲームにおけるサイコパス発言である。
もちろん、各バーチャルyoutuberには様々な多面性がある。何故なら、"中の人"は人間だから。そもそものじゃおじさんは就職したし。(おめでとうございます)しかし、ファンアートで扱われるのは、各バーチャルyoutuberの特に突飛な特徴であることが多い。
つまり、バーチャルyoutuberのキャラクター化とは、各"中の人"の多くの側面のうちから一部だけをぬきだし、そして二次創作などにおいては強調する行為なのだ。
そして、これもアイドルなどと共通していえることなのだが、もう一つバーチャルyoutuberの大きな特徴がある。それは「演技」ということである。
キズナアイは、あくまで電脳空間から出られないAIキャラクターだ。しかし、我々は、"中の人"は普通の人間であることをなんとなく理解しており、だが運営側との共犯においてAIのキャラクター「だということにしている」というのは、これまで述べたとおりだ。
しかしキズナアイをAIのキャラたらしめているのは、視聴者と運営だけではない。なによりも"中の人"がキズナアイとして振る舞う、ということが重要なのである
。
これは想像するしかないが、"中の人"は、少なくともAIではないのは確かであるだけでなく、もしかしたら、キズナアイとは全然違う性格かもしれない。もしかしたら、輝夜月の"中の人"はリアルでは静かな人かもしれない。(いやそれはないだろ、と思うでしょうが、あくまで可能性の話です)
そう、バーチャルyoutuberにおいて、そのキャラクターとしてのバーチャルyoutuberと"中の人"は、パーソナリティが異なる可能性がある。これがいわゆるロールプレイである。
ロールプレイで、性別も年齢も異なる者、果ては人間以外のものも演じられる。それだけではなく、"中の人"とは異なる性格を装うこともできる。……いや、装うというのはおかしいかもしれない。なぜなら、"中の人"は"中の人"、バーチャルyoutuberはバーチャルyoutuberという考え方があるからだ。だがその話はここでは深入りしない。
それと、動画より生放送、ソロよりはコラボのほうがおそらくロールプレイしにくいことを補足しておく。他の人や視聴者に生での反応を返すのにも全く素を出さずにいるのは難しい。しかし、それができるならば……ある意味では、シャーマンといえるのではないか。
ここまで、キャラクター化と演技について述べてきた。これはある意味で呪術性があるのではないだろうか。呪術とは、人間を祭り上げる試みだ。また、さきほどシャーマンを例に出したように、非常に高度なロールプレイは降霊術とも似ている。
しかし、私が少々心配しているのは、"中の人"がキャラクターに呑まれないか?ということだ。
未見だが、映画『パーフェクト・ブルー』や『ブラック・スワン』は、役作りに没頭するあまり自我が危うくなっていく主人公を描いていると聞く。また現実でも、ヒース・レジャーの死はジョーカーの役作りと全く別件と考えるのは難しいだろう。
バーチャルYoutuberは、役と役者の距離が一般的なものよりはるかに近い。このような事例が今後起こらないとは限らない。さらに、おそらくは実在感を高めるためだろうが、多くの企業勢バーチャルYoutuberは"中の人"が非公開となっている。(これも呪術的だと思う)よって、このようなことが起こってもひた隠しにされるかもしれない。いや、本当に隠されているだけで、本当に役との境界が曖昧になった"中の人"がいるかも……。
もちろん、そうなったら適切な治療が必要なことは言うまでもない。しかし――不謹慎だが――そうなったら、面白いことだ、と思ってしまう私がいるのだ。