スーパーふどげりさ

ふどげりさとはッッッ!!!神代より行われている行為のことである!!!!!

それでも批評が必要である理由

最近……というか少なくとも自分がツイッターを始めたあたりからはずっと、世間(ここでいう世間とはオタク世間のことです)では批評家・評論家を毛嫌いする風潮がある。
曰く「シン・ゴジラは批評家が酷評したのにヒットした。やっぱり批評家はクソだ、あてにならない」
曰く「ゴジラKOMは……」「バトルシップは……」「この世界の片隅には……」などなど。
そもそも、他はまだしも『シン・ゴジラ』『この世界の片隅に』はむしろ批評家評も良かったのだが(それぞれキネマ旬報の2016年邦画で2位と1位である)、そうした事実よりも「批評家に酷評されたがヒットした、ので批評家は見る目がないくせに態度だけデカいやつらだ」という「物語」が優先されるほど、批評家、そして批評は毛嫌いされているのだ。まあ、実際、態度のデカい批評家、見る目のない批評家、あるいはその両方を兼ね備えた人もいるんだろうが……。

しかし、声を大にして言いたい。それでも、批評は必要であると。

ひどい批評家がいればその批評家とその人の書いた批評を批判すればいいだけで、「やっぱり批評という行為自体いらないんだ」ということにはならないのである。オタクの中に犯罪者がいるからとてオタクが全員犯罪者予備軍ということにはならないのと同じだ。

では、なぜ批評は必要なのか?
それについてはプロアマ問わず様々な答えがあるだろうが、そう訓練を積んだわけでもない自分が思うのは、ぶっちゃけ「なめられないため」である。
どういうこと?と思う方も多いと推測されるので、筆者の好きな分野である特撮を実例に挙げて説明していきたい。

時は1970年代後半。
宇宙戦艦ヤマト』が再評価されるなど、アニメが子供だけが見るものから、徐々に大人も楽しめるものへと変わっていった時代である。
その流れを受け、初期のゴジラシリーズや、『ウルトラQ』『ウルトラマン』『ウルトラセブン』の、いわゆる昭和一期ウルトラシリーズが再評価され始めた。
同人誌文化が盛り上がりを見せ始め、商業でも思春期世代を対象とした、今でいうMOOK本が出始める中、1978年には『ファンタスティックコレクション 空想特撮映像のすばらしき世界 ウルトラマン/ウルトラセブン/ウルトラQ』(ファンコレ)という本が出版され、2年後には現在まで続く『宇宙船』が創刊。
そうした本の中で、先行していたアニメに続き、今まで子供向けのものにすぎなかった特撮ものを、文芸的、あるいは芸術的な観点から評価する試みがなされたのだ。

そうした大人のファンダムの盛り上がりが『ザ☆ウルトラマン』『ウルトラマン80』の製作につながっていったわけだが、それだけではない。
初期のウルトラシリーズが、たんに当時の子供にブームを巻き起こした人気作品であるだけでなく、後の世から見ても、また大人から見ても楽しめるものであり、かつ単純な作品ではなく高いSF性や社会問題の反映、高度の特撮技術が織り成す、文字通り「不朽の名作」であるという評価が定着したのである。
本日まで、そういった評価がおおむね反映されているといっていいだろう。

ここから何を学びとれるのか?
つまり批評の役割の一つとは、時代の象徴としてのみ見られている作品を、時間を超えても通じるものとして定着させることなのではないか。
単なる見世物ではなく、文化的・芸術的な側面からも素晴らしいものである、あるいは見世物ではあっても非常にレベルの高い見世物であると。

70年代後半の特撮再評価の話に戻ろう。
先程、「初期ウルトラシリーズが大人によって再評価された」と述べたが、公正を期すため、それらの負の側面についても述べねばなるまい。
高く評価された第一期ウルトラシリーズと対比される形で、『帰ってきたウルトラマン』から『ウルトラマンレオ』までの第二期ウルトラシリーズが、非常に低く評価されてしまったのだ。
ウルトラマンタロウ』に至っては、前述のファンコレでは「怪獣と人間のドラマが分離している」「タロウの脚本は僕にも書けるという冗談が流行った」と、散々な言われようだったとのこと。
ここに批評の落とし穴がある。AとBを体系だてて比較することは、それぞれの特徴がより浮き上がる一方、気をつけないと必要以上に片方が貶されてしまいかねないのである。

だが、これだけでは終わらない。
それから少しして、あまりに低く評価されてきた第二期ウルトラシリーズの再評価が始まったのである。
1984年の「宇宙船」には、すでに第二期ウルトラシリーズの再評価という特集が組まれていたようだ。
当時作品を夢中になって見ていた子供が次第に成長し、発言権を得ていったこともあって再評価の声は次第に大きくなり、1999~2001年からはそれらの作品群を再検証するMOOK本のシリーズが出版。
現在では、「昭和二期シリーズは駄作」というかつての風潮は完全に払拭されたといえよう。
また、こうした「一時期は古い作品と比べられる形で不当に低く評価されていた作品が、時間を経て高い評価を受けるようになる」例は、チャンピオン期やVSシリーズのゴジラ、初期平成ライダーなど特撮だけでもいくつも見られる。

ここから言えることは、先行する批評がおかしいと感じたら、それに反論すればいいということだ。
「批評家は見る目がない」と思考停止に至るのではなく、先行する批評に熱意と理性をもって一つ一つ反論し、あるいはそれを上回る批評を書いて公開する。そうした行為を積み重ねていくことにより、気に入らないムーブメントを塗り替えていくのだ。

まとめると、私の思う作品批評の役割は
①作品を単なるムーブメントや消費物としてだけでなく、時を超えた価値のあるものだと主張する
②不当に低く評価されている作品をひっくり返す
ことである。
こうした意義を先程はまとめて「なめられないため」とした。

最後に、これらを2つ同時に成し遂げたブログを紹介したい。
ほあしさんのブログ「Black and White」である。

Black and White (hatenablog.com)
ここでの批評の対象は、言わずと知れた週刊少年ジャンプのバトル漫画『BLEACH』である。
今でこそ終盤のアニメ化や新作読み切り、同世界観の別シリーズなど大きな盛り上がりを見せているが、2010年代前半ごろはネット上で非常に低い評価をされていた。
「作者は何も考えずライブ感で描いている」「オサレポイントバトル」など……。
このままでは、無論当時の人気はあっても、時代の徒花として消費されていくだけの可能性もあったのではないか。
しかし、このブログではそうした風潮をひっくり返すべく、しっかり設定を練り込んでいないと仕込めない、作品の奥底の伏線や反復されるメタファー、先行作品からの影響から通底するテーマまで、あらゆる角度から批評が行われている。
そして、すさまじいことに、作者・久保帯人先生自身からお墨付きをもらっているのだ。

『BLEACH イラスト集 JET』発売記念 久保帯人先生サイン会 超個人的レポート - Black and White (hatenablog.com)
昨今、当時の評価が嘘のように『BLEACH』が盛り上がっているのは、当時のメインターゲットたる中高生が大人になり、ネット上の多数派になったのももちろん大きいだろうが、このブログが侮辱的評価を払拭したのも決して小さくないと思っている。
このブログはそういう意味で、先程の①および②を同時に達成したといえるのではないだろうか。

さて。
70年代のオタク文化黎明期はおろか、10年前と比較しても更に深夜アニメやゲームをはじめとした、いわゆるオタク的な作品は人口に膾炙しており(陽キャも配信で深夜アニメを見る時代である)、オタクであるだけで低く見られたりすることはほぼなくなった。また、子供向けコンテンツがジャリ番などと呼ばれていた時代もとうの昔である。
そうした意味で、「俺の好きなものをもっと世間に評価させてやる」といった、ある意味でネガティブなモチベーションを駆動させる必要は減っただろう。
だが、個々の作品ではどうか?
不当に低く評価されていると感じる作品。
人気はあるが、30年後には歴史の一部以上のものにはなっていなさそうな作品。
ネットミームとして消費されて終わりそうな作品。
そして、日の目を見ない埋もれた名作。
あなたが好きな作品で、そういうものの一つや二つは容易に思い付くのではないだろうか。
なら、批評を始めてみよう。
たまには「アオいいよね……」「尊い」「こういうのでいいんだよこういうので」だけではない世界に、足を踏み入れてみてはいかがだろうか。

 

 

 

参考

「特撮映画や『ウルトラマン』を論ずる」ことの原点

https://shimirubon.jp/columns/1674312

 

帰ってきたウルトラマン』ドラマ論

https://gamp.ameblo.jp/tabitto339/entry-12442332970.html