スーパーふどげりさ

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初代『ウルトラマン』にみる、普遍性と時代性

シキポンマニア【誰?】にはご存知だろうが、私は本当に作品を見ていないほうだ。もうマジでびっくりするくらい見ていない。どれくらいかというと、初代『ウルトラマン』だって、総集編ビデオなどで触れてはいたものの、本編を通して見たことがなかったくらいに。
しかし、『シン・ウルトラマン』公開が迫ったため、予習としてこの度、全話を初めて通して鑑賞した。
そして感想は……。


めっっちゃ面白かった…………。


ということで、既に語り尽くされたといっても過言ではない作品である『ウルトラマン』だが、それでも記すことに意味があると信じて、感想を書いてみたい。

優れた作品は「時代性」と「普遍性」を同時に獲得している、というちょっとした持論がある。たとえば『シン・ゴジラ』は、東日本大震災を受けて作られた作品であり、当時の記憶が残る日本人だからこそ深い共感を呼び起こす作品になっていたと同時に、時代を選ばない面白さも備えていると思う。
ウルトラマン』もそういった作品のひとつだと感じる。高度経済成長期に作られた作品ならではの時代性と、今やきっと未来にも通じる普遍性が備わっている。
順序が逆になってしまうが、まずは普遍性だ。ウルトラマンの、赤と銀の巨大な宇宙人というその見た目、そして腕を交差してスペシウム光線をはじめとする様々な光の技を放つという独創性。それは55年を経た現在でも、全く色褪せない。と、いっても、さすがに見慣れたものになってしまってはいるが、当時の驚きは凄まじいものだっただろう。
他にも、青白く光り分身し、さらに脱皮するバルタン星人、奇怪な形状のドドンゴペスター、摩訶不思議な現象を起こすブルトン……などなど、理屈ではなく、「視覚で感じるSF」として、心地よいセンス・オブ・ワンダーを与えてくれる。
センスある会話劇も魅力だ。ありきたりな言葉になってしまうが、科特隊員は本当に生き生きしている。わかりやすくキャラが立っていて、かつ奥行きがあって書き割り感がない。さらに、スタッフも録画で見返すことが容易でない時代に作られた作品でありながら、各話で各隊員の性格にブレがほとんどない、というのも地味ながら凄いところだ。
「奥行きがあって書き割り感がない」のは、世界観にもいえる。
科特隊は、あくまで調査を主軸とする団体であり、怪獣への本格攻撃となると防衛隊が別に出動することも多い(と、いっても、科特隊だけで怪獣に立ち向かうことも多いが)。また、しばしば海外の他の支部から隊員が訪れたり、アントラー回のように海外で任務にあたることもある。最終回では、TV番組でできる範囲で大スケールの話が繰り広げられた。

次に時代性だが、『シン・ウルトラマン』にあたり樋口真嗣監督もしばしばインタビューで語っているが、前向きで陽性な作風が大きな魅力のひとつだ。
クッキリハッキリした画作りもさることながら、仲の良い科特隊メンバー、軽妙なテンポ、多くの話では明快なオチ……など、数多くの要素によって「明るさ」が紡がれている。
そして、その根本にあるのは、人間性、もっというと人間の理性・叡智への信頼ではなかろうか。
これもしばしば指摘されることだが、高度経済成長期の真っ只中に制作され、未来は良くなっていくというのが共通認識になっていた時代、そしてその背後にあった科学の発展のためだろう、「この社会はこれからもっと良くなっていくはずだし、そうあるべき」という感覚にあふれている。
もちろん、ジャミラ回やウー回などで、テーゼに対するアンチテーゼ、自己批判の要素をしっかり入れているのも奥行きにつながっている。しかし、全体を通しては科学、そしてそれを使う人間の理性と善性を自明のものとして扱っていることが読み取れる。
これは、ただのお題目ではない。近年の特撮ドラマは、マーチャンダイジングとの一致性もあり、人間キャラクターの成長や葛藤、関係性の深化を主軸に据えていることが多い。いわば、人間の心情中心の作劇だ。
それに対し、『ウルトラマン』は、「この怪獣・宇宙人が現れ、科特隊はこういう対応をとった。それに怪獣はこうリアクションした」……という、いわば事象を中心とした作劇になっていることが多い。後半に向かうにつれ、キャラクターの心情にフォーカスした話も増えていくものの、それでも前述の「事象」の要素が必ず入っている。
これは、ひいては情によってではなく、理によって話を成立させている、ということではないだろうか。作品が掲げるテーマと作品自体の描かれ方が高度に一致したとき、説得力は何倍にもなる。『ウルトラマン』は、それを実践してるといえよう。
それが最も表れているエピソードは33話「禁じられた言葉」だと考える。少年だけに謎の声が聞こえるというところからどんどん状況がエスカレートしていくも、結局、「子供ですら当然に世界をよくしていきたいと思う」という信念に、メフィラス星人は敗北を喫するのだ。

以下、上記から漏れた感想をぽつぽつ。

★飯島監督の安定感。
ウルトラマン』の監督でいうと、やはり実相寺監督が第一に語られがちだが、自分は飯島敏宏監督も特に高いレベルのエピソードを撮っていたと思う。
製作第一話である「侵略者を撃て!」で『ウルトラマン』の基本を確立したといっても過言ではないほか、ユーモア・会話劇のセンスも抜きん出ていた。
先程も述べたブルトン回の「異次元へのパスポート」も、1966年によくぞここまで……と言いたくなるような、SF性と不条理コメディの融合となっており、特にお気に入りのエピソードのひとつだ。

★好きな怪獣
子供の頃はレッドキングがスキーだったものの、加齢のせいか先程のブルトンや、『シン』でも登場する宇宙人たちのような、有名ではあるもののややいぶし銀なやつらがいいなぁ……と思うようになった。
なんというか、少し硬質で未来感のある話やデザインのほうが好きになるのかもしれない。
ここまで話題に出していない怪獣では、キーラが結構好きである。じりじり目を閉じてにじり寄り、『ウルトラQ』の効果音とともに巨大な眼が発光!かっこいい……。八つ裂き光輪を尻尾にひっかけてしまうところも独特で、中々の良怪獣だと思う。

★特撮パート。
現在のテレビシリーズのウルトラマンは、既に作ってあるビルなどのミニチュアをシチュエーションごとに並び替えて使うことが多い。もちろん予算を考えると仕方ないことなのだが、初代マンは1回ごとにミニチュアをまるごと新しく作っているのでは?としか思えないパターンが多い。ゲスラ回の港というシチュエーションなど、現在は中々見ることができない。
かつての円谷プロは予算管理がしっかりしていなかったことで知られ、無論ビジネス的には良いことと言えないのだが、それでも圧倒される。
また、話数が進むにつれ、ウルトラマンの殺陣がどんどんアグレッシブになっていくのも印象的だった。ケロニア回はベストバウト。



さて、『シン・ウルトラマン』公開がいよいよ明日となった。明日ァ!!?!?!
前述のように高度経済成長真っ只中だった55年前とは違い、低成長・少子高齢化、長引くコロナ禍、さらには侵略戦争……など、何かと不安が多く先の見えない世の中である(無論、当時も色々社会問題はあっただろうけど)。
そんな時代だからこそ、面白い作品であることはもちろん、当時子供だった人や今の子供、そしてすべての老若男女に希望と前向きさを与えてくれる作品になっていることを祈るばかりである。