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無限の想像の中から。『グリッドマン ユニバース』感想

※全編ネタバレありです。未鑑賞の方はブラウザバック推奨。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


グリッドマン ユニバース』が私の心に深く突き刺さり、早くも心の中の特別な位置に占める作品のひとつとなりつつある。

ただ、「ファンサービスに徹した娯楽作品」との評をちらほら目にする。と、いうか、パンフレットで「ファンサービス全振り」と明言されている。
しかし、私は思う。確かに胃もたれするくらいのファンサービスが嬉しい作品だが、『グリッドマン ユニバース』は決してファンサービスだけの作品ではない。むしろ、テレビシリーズより深くテーマに切り込んだ、普遍性のある名作であると。
本稿では、議論の飛躍等色々あると思うが、自分なりに本作のテーマについて考えていきたい。

私が思うに、本作のテーマ(の、少なくともひとつ)は「想像力の肯定」だ。
これはどういうことか?
本作は、「イマジネーションや創作によって作り出された世界」の多重構造になっている。アカネ達のいる実写の世界があり、そのアカネがかつて創り出しグリッドマンが拡張した『SSSS.GRIDMAN』の世界があり、グリッドマンが本編最終回後に新たに創り出した『SSSS.DYNAZENON』の世界やちらりと触れられる各漫画等スピンオフの世界があり、さらに複数の劇中劇があり……。
ここにメタ的な意図があることは、ほとんど疑いようがない。そして、劇中最も大きく触れられる劇中劇の完成形はずばり『グリッドマン ユニバース』。世界の危機と並行して内海と六花を中心に台本制作の過程が描かれ、エピローグで上映される。これはパンフレットで雨宮哲監督が言及しているとおり、本作あるいはテレビシリーズの試行錯誤の過程を作中に取り入れたのだろう。
さらに、グリッドマンの新形態となるユニバースファイターは文化祭の準備で主要人物たちが描いたグリッドマンの姿が重なって生まれた姿だ。
……と、ここまで読んだ読者諸君は思うかもしれない。「じゃあ、テーマは『創作の素晴らしさ』とかじゃないの」と。事実、テレビシリーズ二作品に続き本作でも怪獣デザインを担当した西川伸司氏は、テーマは「創作讃歌」としている。 

※4/7訂正:西川氏が「創作讃歌」としていたのは、主題歌『uni-verse』についてでした。謹んでお詫びし、訂正いたします。

https://twitter.com/MASH_nishikawa/status/1640164185471582208
無論、それも間違いとは全く思わない。内海演じるグリッドマンを皆が笑いつつも楽しむ姿は、完成した作品が客に触れる創作の醍醐味そのものだ。
しかし、やはり私は、本作の根っ子にあるのは「創作」だけでなく、創作の更に前段階、想像すること、思い浮かべることのすばらしさを称えたいという思いに感じたのだ。

ストーリーの中盤で、世界の危機の前兆として「カオス化」が発生する。エントロピーが増大し、死者が復活し、都合のいいことが起こり、時空さえ歪む。そしてもちろんカオス化(と、世界の消滅)は止めなくてはならないものとして描かれ、実際に止められる。だから、カオス・混沌は本作において否定されるべきものと考えた方もいるかもしれない。
が、思い出してほしい。そもそも作中的にはユニバースの統合によるカオス化の一端として発生したであろう『SSSS.DYNAZENON』の登場人物が『SSSS.GRIDMAN』に行く現象は本作の売りのひとつである(事実、2作品の登場人物が大集合した画面は、ごちゃごちゃしていて秩序とは程遠い)。かつ、登場人物同士の絡みは、多くが微笑ましかったり熱かったり、ポジティブな感情を想起させるものとして描かれている。さらに、おそらくカオス化が進んだため発生したであろう、本来あり得るはずのなかったガウマ(レックス)と姫の再会は、それ自体は非常に感動的である上、それが夢とか幻覚であったというようなオチはなく、再会自体は紛れもない事実として描かれる。
また、今回の黒幕にして混沌の象徴たるマッドオリジンを倒すためのクライマックスの戦闘は、畳みかけるような新合体、主題歌×3に載せる見せ場のつるべ打ち。秩序どころか、さらにカオス化が加速しているのでは?と思ってしまうくらいだ。
そう、作品全体としては秩序を否定していないのはもちろん、カオスなものをも全否定していないのだ。

ところで思い出してほしい。我々が子供の頃、ごっこ遊びしたり玩具で遊んだり、好きな作品のこの先の展開を考えて遊んだりしてた頃を。
その時、「作品としての完成度を上げなきゃ」などとは全く考えず、心の赴くまま足して足して足して遊んでいただろう。
そこに引き算(秩序化)はなく、足し算(カオス化)があった。
これは創作…というよりは、その前段階にある「想像」ではないか。
創作の過程においては多くの場合、不要な部分の切り捨て、つまり秩序化が必要となる。絵だったら1枚、映画だったら2時間の映像、小説だったら1冊(でないことも多いけど)。作品の完成度を高めるため、余分なものは捨てなければならない。事実、見せ場山盛りの本作でさえ、ゲストキャラの登場といったアイディアが制作途中で捨てられたことが明かされている。
しかし、創作の前段階となる「想像」は、ものが増えることはあっても減ることはない。忘れることはあっても想像したことはなかったことにはならず、ひたすら蓄積していく。
つまり、想像とはカオス化と結び付けられるものではなかろうか。取捨選択してなお要素がとても多いこの作品は、カオスの元たる「想像」を肯定しているのではなかろうか。
そのことを考えると、終盤の新合体のつるべ打ちが、まるで子供がまだ見ぬ新合体を玩具で試したり脳内に思い浮かべたりして、想像しながら楽しく遊んでいるような光景にも見えてくる。

本作の後半で、怪獣少女アノシラス(2代目)により、「人間は虚構を信じることができる唯一の生き物」だと語られる。
国家など、形のない概念は極論すれば虚構の産物、想像上のものにすぎない。だがそれを信じて皆の共同幻想とすることで、それは「ある」ことと同じになるのだ。(「国家は物理的には存在しない」ならまだしも、「国家は存在しない」と発言すれば、かなりの変人と見なされるだろう)
同様に、裕太や六花達はアカネに、蓬や夢芽達はグリッドマンによって創造された被造物であり、さらにメタ的にはアカネも含め創られたキャラクターにすぎない。
しかし、彼らを創造した創り手と我々受け手がその虚構を共有し、彼らを実在の人間と同じように認識する。頭では脚本に沿って動くキャラクターだと分かっていても、心のどこかでは彼らを本当に存在する人間のように感じてしまうのだ。
私は本作に出てくる人物達が皆いとおしく思える。ラストで日常に戻ったグリッドマン同盟やガウマ隊はこれからも楽しく過ごしてほしいと思えたし、特に裕太と六花の告白シーンには悶えた(読者の皆さんもそうでしょう?)。これは彼らが架空の存在だとわかっていながらも、一方では単なるスクリプトと絵と演技の塊ではない、生きている存在だと認識しているからだ。
これは、『SSSS.GRIDMAN』や本作で、六花や蓬などが自分たちが創られた存在だと知らされ衝撃を受けても全てを放棄せず、これまでと同じように自分の人生を生きているのとイコールだ。
『SSSS.DYNAZENON』の世界が生まれて恐らくそれほど経っていないことと、その世界に生きる夢芽が数年前に姉を亡くしているという一見矛盾する事実は、両立しているのだ。
同じように、例えば半年しか連載していない漫画で「10年前の出来事」が語られても、読者はそういうものとして認識する。
実体のない概念を想像し、それを「ある」と認識することで人類は発展してきたし、あまたの創作物を享受してきたのだ。

また、本作『グリッドマン ユニバース』まで続いてきた『SSSS.GRIDMAN』『SSSS.DYNAZENON』は、特撮作品『電光超人グリッドマン』を原作とするシリーズであり、特撮が元になったアニメ作品だ。
特撮ものの中でも巨大特撮は、ミニチュアの中に立つ着ぐるみを「ビル街や山の中に立つ巨人や怪獣」に見立てることで初めて成立するジャンルである。
そしてアニメというジャンルは突き詰めるとパラパラ漫画であり、たくさんの絵の蓄積でしかないものだ。
どちらも、制作者が想像力を働かせ作品を作り、また鑑賞者が想像力を働かせ「これは本当に存在するものだ」と信じることで初めて成立するジャンルである。
「特撮を原作としたアニメ」であるこのシリーズが想像力について語るのは、ある意味必然と言えるのではなかろうか?
そしてグリッドマンのIPを持ち、本作をTRIGGERと共同制作しているのは円谷プロダクション。その言わずとしてた代表作である初代『ウルトラマン』には、「空想特撮シリーズ」の副題が付いている。ウルトラシリーズをはじめ、円谷プロはイマジネーションの奔流たる「空想特撮」作品を作ってきた。豊かな想像力によって紡がれた物語を創意工夫により実体化し、それにより視聴者の想像力を刺激する。本作もまた、今まで見たことないような映像が確かな説得力を持って表現される。宇宙そのものがグリッドマンの形になっている……笑ってしまうような現象なのにどこか美しくもある。本作はTRIGGER作品であると同時に、やはり円谷プロの血も濃く流れていると思うのはそういうところだ。
子供が考えるような突拍子もない奇想天外さにディテールが与えられ、完成度の高い作品となる。円谷プロ作品は創り手の想像力が作品をより良いものとしてきた典型であり、本作もその系譜上にある。

最後に、『電光超人グリッドマン』から始まるグリッドマンの一連のシリーズにおいて、もうひとつ重要なテーマである友達や仲間との繋がり・絆がある。これと想像力との関係について考えてみたい。
想像力とは、国家といった概念や架空のものを認識したり、新しくものを考えたりするということのみには留まらない。突き詰めれば、眼前に存在するもの以外を考える力だ。
高度な動物にも身近な存在への共感力はあるが、眼前に存在しない他者を想うには、目に見えないものを認識する力、想像力が不可欠ではないだろうか。
意中の人に彼氏ができたのではないかとやきもきするのも。
今は遠く離れて生きている友達のことを想うことも。
自分が独りじゃないと気付くことも。
全て、想像力から始まるのではないだろうか。
怪獣少女(2代目)が語った、人が信じられる「虚構」には、「目に見えない人との繋がり」も含まれていた。
人は想像力があるからこそ、他者との繋がりを感じられるのだ。

 

作中に、台本の制作過程というかたちで「伝えたいこと」と「楽しませること」の間の葛藤がメタ的に挿入されていたこともあり、この作品のテーマとは何か?を自分なりに考えてみた。
完成前、一番伝えたかったことであるアカネの記述を一度は捨てた六花が台本を書き直したことは、きっと本作でも試行錯誤の末、伝えたいテーマをなんとか入れることができたということを示唆しているのだろう。
ラストの告白前、六花が「伝えたいことがちゃんと伝わったか不安、でも笑ってもらえたからいいか」という発言も、雨宮監督らの自己投影が含まれているのだろう(実際、TSUBURAYA IMAGINATION内のインタビューで似た趣旨の発言をされている)。
でも、それが制作陣の意図そのままなのかは分からないが、自分には伝わったよ、と言いたい。
そして、一度は完結し、それ以上動き出すことがないかもしれなかった作中の人物たちと再会できたことを祝いたい。
早速2週目特典のボイスドラマで語られているように、またどこかで再会できるのを期待しつつ、彼らがそれぞれのユニバースで元気にやっていることを想像し、そして祈りたい。
久しく会っていない現実の自分の友達にも、また会いたくなった。会いたいな。