『シン・ウルトラマン』感想~あなたは新作なの?リメイクなの?~
3回、観た。面白かった。もしかしたら次もあるかも。
だが、なんだろう、このモヤモヤは……。
公開から2ヶ月近くが経ち、肯定・否定含め様々な評が出回ったが、やはり自分の言葉を紡げるのは自分だけだ。そう思って、今更『シン・ウルトラマン』の感想を書く。
特撮面
まず、弊ブログらしく?、特撮パートの映像面について。
この点について言及している人をあまり見ないのだが、本作はアナログ特撮を用いたシーンがかなり少ない。パンフレットによると、本作の特撮パートはほとんどがCGだという。ミニチュアを用いたと明言されているのは、巨大浅見のシーンくらい(ビルがパンチされるカットの内引きだろうか)。
あと、某所で、ネロンガのシーンで送電線も一部ミニチュアとか聞いたような……。ソースがある人、ご一報ください。
公開少し前、メインスタッフのクレジットが判明した時、特技監督の肩書きや、『シン・ゴジラ』で美術監督を務めた三池敏夫氏の名前がなかった(実際のエンドクレジットには、特撮パートの特殊美術で名前があったが、シンゴジより小さい役職ではあったであろう)時点で「もしや……」と思っていたが、当たってしまった。
『シン・ゴジラ』では、今までのゴジラとは異なる、CGや実景合成を主体とした特撮パートが作品のリアリティに大きく寄与していたが、その一方で、ヤシオリ作戦時に壊されるビルの室内はじめ、要所要所で挿入されていたミニチュア特撮のカットがCGの不得意部分を補い、実在感を高めていたといえよう。
翻って『シン・ウルトラマン』には、そうしたアナログ特撮のカットが、『シン・ゴジラ』に比べてもかなり少なくなっている印象だった(まあ、気づいてないだけで実際は印象より多い可能性も大いにあるが)。
庵野さんも、樋口監督も、尾上准監督も、アナログ特撮とCGそれぞれのメリット・デメリットは熟知しているはず。そこから推測すると、本作のアナログ特撮の少なさは、やはり予算の少なさに起因するのでは? コロナ禍の延期に伴い追加予算が出たとはいえ、『シン・ゴジラ』より少ないことがほぼデザインワークスにて名言されている。
では、CGはどうか?
残念ながら、『シン・ゴジラ』に比べて、技術的にどうであるかはともかく、パッと見の印象としては、リアルさ・実在感に欠けているように思えてしまった。
もちろん、(多分)シンゴジより予算が少ないのにもかかわらず出物の量や特撮パートの時間・シチュエーションが単純に多い。デザインワークスで言及されている、公開延期に伴いスタッフが集め直しになった点なども含め、大小さまざまな苦労があったことだろう。しかし、リアリティラインをシンゴジより低めにしているとはいえ、「現実にウルトラマンがいる」と感じられるようなカットが少なかったのも事実。前述したミニチュア部分の少なさも、そうした印象に拍車をかけているように思える。
とはいえ、「大作邦画のクオリティで」「洋画的ではない」ウルトラマンを実現させたことは素晴らしいと思う。
今もって謎の映像『ULTRAMAN n/a』。あの映像のCGは非常にクオリティが高く、今もって色褪せないが、あれは生物的でヌメッとしたウルトラマンやクリーチャー然とした怪獣など、どちらかというと「洋画っぽい」センスで作られていたと思う。
対して『シン・ウルトラマン』は、フルCGではありつつも、初代に近く、そこから更に成田亨のデザインに近づけたウルトラマンや、ちょっとアニメチックな禍威獣・外星人など、洋画っぽさとはかけ離れている。
少々ナショナリズムぽい結論だが、日本的なセンスで一般向けの映像を作るという点に関してはしっかり成功していると思うし、「世界のマーケットに向けて日本的なイズムを持つヒーローを押し出していく」という、円谷プロ・塚越会長の姿勢とも一致しているように感じられる。
個別感想としては、ネロンガ戦のスペシウム光線はケレン味全開の樋口イズムが感じられて良かったし、ザラブ戦の躍動感は本作の白眉だ。メフィラス戦は……もうちょっとなんとかならなかったのかな……。ただ、音ハメは気持ちいい。
ところで、時々こういう意見も耳にする。「ぶっちゃけニュージェネウルトラマンのほうが映像凄くない?」と。
これに対しては、「ニュージェネは新しい映像を追求している一方、『シン・ウルトラマン』は初代『ウルトラマン』当時の感覚を現代に再現しようとしているのでは」という反論(でもないか)が、しばしばなされる。
自分も、まあそんなところだろうと思う。
しかし、こうも思うのだ。「懐古主義じゃない?」と。
あなたは新作なの?
本作の「懐古主義性」は、特撮パートに留まらず作品全体を貫くものである。
そもそも本作は、『ウルトラマン』からいくつかのエピソードを抜き出し、現代的かつ一本の映画として筋が通るようにアレンジして繋いだような構成になっている。ザラブパートなんて、ほぼ「遊星から来た兄弟」まんまだ。
これは、初代ゴジラや84年版ゴジラのエッセンスを汲みつつ、全く新しいゴジラにもなっていた『シン・ゴジラ』とは対照的だ。
庵野さんはゴジラには相対的に思い入れが薄いのに対してウルトラマンはとても好きだから、原点をあまりいじくり回せなかったのかなーとか想像してしまうが、経緯さともかく、結果として「まあ、初代マンを「人間との友情」テーマに一本にまとめるならこうなるよな」という「妥当」感を覚えてしまった。「妥当」にも行けない幾多の作品からすると贅沢な悩みではあろうけど……。
初代マンの完成度は現代にもそのまま持ってこれる、という矜持が感じられるのは非常にグッとくるものではあるが……うーん……。まあ、ウルトラマンなんて一度も見たことないよ、という客も大いに対象にしてるものだから、このモヤモヤ感はオタク特有のものかもしれない。
リメイクなの?
「シン・ウルトラマンは初代マンそのまんますぎる」と書いたが、一方で、初代『ウルトラマン』特有の魅力を現代にそのまま再現できているかというと、それもやや疑問符がつく。
初代のもつ上品さ、牧歌性……etcは、高度経済成長期という時代背景があってのものでもあろうし、完全再現は難しいこともわかるのだが、それにしても、「何か」が決定的に違う気がする。
細かい要素の積み重ねが総体としての作品の印象を形作るのであり、細かく分析するのは容易ではないが……まずひとつに、禍威獣を生物兵器と位置付けたことによる、怪獣のバラエティ感の欠如。ひとつには、前の理由と連動するが、オムニバスのテレビシリーズと映画という形式の違いに起因する差異。ひとつには、民間人や子供のゲストの不在。ひとつには、中途半端にシンゴジに寄せたような、官邸や近隣諸国の描写……。
あるいは、私が初代マンを見たときに感じた「突拍子もない絵面が、確かな説得力をもって存在しているという、画的なセンス・オブ・ワンダー」も欠けていたかもしれない。前述の話にも繋がるが、「初代マンを現在の映像技術で作ると、まあ、こうだよな」的なか「妥当」感がここにも漂う。初代マンらしい新鮮さを得るためには、かえって初代マンを真似てはいけないという逆説……。
まあ、同じ人が作った複数作品ですら別の印象になるのだが、違う人が作った作品で印象が変わるのは当然かもしれない。庵野作品らしい理屈っぽさや、初代の小洒落たユーモアの代わりに挿入されるハードSF的な専門会話など、初代にはなくて『シン・ウルトラマン』にある魅力もある。
しかし、「新作」にも「リメイク」にもなりきれていないような中途半端さを、『シン・ウルトラマン』に覚えてしまうのであった。
原点へのリスペクトを込めることと、新しい作品を作ることは、相反するものではなく両立するはず。事実、ニュージェネのウルトラマンは、作品によってうまくいったりいってなかったりするが、それに挑戦してはいる。
しかし、『シン・ウルトラマン』に感じたのは、リメイクと新作の「両立」あるいは「止揚」ではなく「どっちつかず」であった。
これからのウルトラマン、そして、特撮
さて、円谷プロの親会社であるフィールズの中間決算資料に、一般向けウルトラマン作品をあと2つは作る計画があると書いてあり、ファンの話題を呼んだ。*1
また、デザインワークスには、実現するかは不透明なものの、シン・ウルトラマン三部作の構想があるという。
だが、推測するに、前者の一般向けウルトラマンと、後者の三部作は、部分的には一致しても全面一致ではないのではないか?
フィールズの中間決算資料によると、一般向けウルトラマンの予定は2024年と2026年。しかし、三部作のふたつめである「続・シン・ウルトラマン」は、庵野監督の『シン・仮面ライダー』という予定や「しばらく休みたい」らしいことを鑑みると、実現するにしても公開が2026~27年になってしまうのではないか。
さらに、2024年公開を目指すなら今ごろには既に始動していないといけないことからも、少なくとも2024年の一般向けウルトラマンは、少なくとも庵野作品ではないのではないか。
いや、そうであってほしい。
無論庵野さんは天才だと思うが、「一般層ターゲットの特撮」が庵野作品だけになってしまうのは、なんとなく不健全に感じる。
そういう意味で、「非・庵野」での一般向けウルトラマンが作られ、さらにヒットすれば、さらにウルトラシリーズ、ひいては特撮という文化の発展につながるのでは?という気がするのだ。
そういう意味で、『仮面ライダーBLACK SUN』や山崎貴監督の超大作怪獣映画(多分あいつだろう)にも期待しているし、庵野シン・シリーズではない一般向け大作ウルトラマンも実現してほしい。
もちろん、「続・シン・ウルトラマン」で庵野さんが「好きにする」のも実現してほしいけど……!
関連:よけば初代マンの感想記事もどうぞ。
初代『ウルトラマン』にみる、普遍性と時代性
シキポンマニア【誰?】にはご存知だろうが、私は本当に作品を見ていないほうだ。もうマジでびっくりするくらい見ていない。どれくらいかというと、初代『ウルトラマン』だって、総集編ビデオなどで触れてはいたものの、本編を通して見たことがなかったくらいに。
しかし、『シン・ウルトラマン』公開が迫ったため、予習としてこの度、全話を初めて通して鑑賞した。
そして感想は……。
めっっちゃ面白かった…………。
ということで、既に語り尽くされたといっても過言ではない作品である『ウルトラマン』だが、それでも記すことに意味があると信じて、感想を書いてみたい。
優れた作品は「時代性」と「普遍性」を同時に獲得している、というちょっとした持論がある。たとえば『シン・ゴジラ』は、東日本大震災を受けて作られた作品であり、当時の記憶が残る日本人だからこそ深い共感を呼び起こす作品になっていたと同時に、時代を選ばない面白さも備えていると思う。
『ウルトラマン』もそういった作品のひとつだと感じる。高度経済成長期に作られた作品ならではの時代性と、今やきっと未来にも通じる普遍性が備わっている。
順序が逆になってしまうが、まずは普遍性だ。ウルトラマンの、赤と銀の巨大な宇宙人というその見た目、そして腕を交差してスペシウム光線をはじめとする様々な光の技を放つという独創性。それは55年を経た現在でも、全く色褪せない。と、いっても、さすがに見慣れたものになってしまってはいるが、当時の驚きは凄まじいものだっただろう。
他にも、青白く光り分身し、さらに脱皮するバルタン星人、奇怪な形状のドドンゴやペスター、摩訶不思議な現象を起こすブルトン……などなど、理屈ではなく、「視覚で感じるSF」として、心地よいセンス・オブ・ワンダーを与えてくれる。
センスある会話劇も魅力だ。ありきたりな言葉になってしまうが、科特隊員は本当に生き生きしている。わかりやすくキャラが立っていて、かつ奥行きがあって書き割り感がない。さらに、スタッフも録画で見返すことが容易でない時代に作られた作品でありながら、各話で各隊員の性格にブレがほとんどない、というのも地味ながら凄いところだ。
「奥行きがあって書き割り感がない」のは、世界観にもいえる。
科特隊は、あくまで調査を主軸とする団体であり、怪獣への本格攻撃となると防衛隊が別に出動することも多い(と、いっても、科特隊だけで怪獣に立ち向かうことも多いが)。また、しばしば海外の他の支部から隊員が訪れたり、アントラー回のように海外で任務にあたることもある。最終回では、TV番組でできる範囲で大スケールの話が繰り広げられた。
次に時代性だが、『シン・ウルトラマン』にあたり樋口真嗣監督もしばしばインタビューで語っているが、前向きで陽性な作風が大きな魅力のひとつだ。
クッキリハッキリした画作りもさることながら、仲の良い科特隊メンバー、軽妙なテンポ、多くの話では明快なオチ……など、数多くの要素によって「明るさ」が紡がれている。
そして、その根本にあるのは、人間性、もっというと人間の理性・叡智への信頼ではなかろうか。
これもしばしば指摘されることだが、高度経済成長期の真っ只中に制作され、未来は良くなっていくというのが共通認識になっていた時代、そしてその背後にあった科学の発展のためだろう、「この社会はこれからもっと良くなっていくはずだし、そうあるべき」という感覚にあふれている。
もちろん、ジャミラ回やウー回などで、テーゼに対するアンチテーゼ、自己批判の要素をしっかり入れているのも奥行きにつながっている。しかし、全体を通しては科学、そしてそれを使う人間の理性と善性を自明のものとして扱っていることが読み取れる。
これは、ただのお題目ではない。近年の特撮ドラマは、マーチャンダイジングとの一致性もあり、人間キャラクターの成長や葛藤、関係性の深化を主軸に据えていることが多い。いわば、人間の心情中心の作劇だ。
それに対し、『ウルトラマン』は、「この怪獣・宇宙人が現れ、科特隊はこういう対応をとった。それに怪獣はこうリアクションした」……という、いわば事象を中心とした作劇になっていることが多い。後半に向かうにつれ、キャラクターの心情にフォーカスした話も増えていくものの、それでも前述の「事象」の要素が必ず入っている。
これは、ひいては情によってではなく、理によって話を成立させている、ということではないだろうか。作品が掲げるテーマと作品自体の描かれ方が高度に一致したとき、説得力は何倍にもなる。『ウルトラマン』は、それを実践してるといえよう。
それが最も表れているエピソードは33話「禁じられた言葉」だと考える。少年だけに謎の声が聞こえるというところからどんどん状況がエスカレートしていくも、結局、「子供ですら当然に世界をよくしていきたいと思う」という信念に、メフィラス星人は敗北を喫するのだ。
以下、上記から漏れた感想をぽつぽつ。
★飯島監督の安定感。
『ウルトラマン』の監督でいうと、やはり実相寺監督が第一に語られがちだが、自分は飯島敏宏監督も特に高いレベルのエピソードを撮っていたと思う。
製作第一話である「侵略者を撃て!」で『ウルトラマン』の基本を確立したといっても過言ではないほか、ユーモア・会話劇のセンスも抜きん出ていた。
先程も述べたブルトン回の「異次元へのパスポート」も、1966年によくぞここまで……と言いたくなるような、SF性と不条理コメディの融合となっており、特にお気に入りのエピソードのひとつだ。
★好きな怪獣
子供の頃はレッドキングがスキーだったものの、加齢のせいか先程のブルトンや、『シン』でも登場する宇宙人たちのような、有名ではあるもののややいぶし銀なやつらがいいなぁ……と思うようになった。
なんというか、少し硬質で未来感のある話やデザインのほうが好きになるのかもしれない。
ここまで話題に出していない怪獣では、キーラが結構好きである。じりじり目を閉じてにじり寄り、『ウルトラQ』の効果音とともに巨大な眼が発光!かっこいい……。八つ裂き光輪を尻尾にひっかけてしまうところも独特で、中々の良怪獣だと思う。
★特撮パート。
現在のテレビシリーズのウルトラマンは、既に作ってあるビルなどのミニチュアをシチュエーションごとに並び替えて使うことが多い。もちろん予算を考えると仕方ないことなのだが、初代マンは1回ごとにミニチュアをまるごと新しく作っているのでは?としか思えないパターンが多い。ゲスラ回の港というシチュエーションなど、現在は中々見ることができない。
かつての円谷プロは予算管理がしっかりしていなかったことで知られ、無論ビジネス的には良いことと言えないのだが、それでも圧倒される。
また、話数が進むにつれ、ウルトラマンの殺陣がどんどんアグレッシブになっていくのも印象的だった。ケロニア回はベストバウト。
さて、『シン・ウルトラマン』公開がいよいよ明日となった。明日ァ!!?!?!
前述のように高度経済成長真っ只中だった55年前とは違い、低成長・少子高齢化、長引くコロナ禍、さらには侵略戦争……など、何かと不安が多く先の見えない世の中である(無論、当時も色々社会問題はあっただろうけど)。
そんな時代だからこそ、面白い作品であることはもちろん、当時子供だった人や今の子供、そしてすべての老若男女に希望と前向きさを与えてくれる作品になっていることを祈るばかりである。
それでも批評が必要である理由
最近……というか少なくとも自分がツイッターを始めたあたりからはずっと、世間(ここでいう世間とはオタク世間のことです)では批評家・評論家を毛嫌いする風潮がある。
曰く「シン・ゴジラは批評家が酷評したのにヒットした。やっぱり批評家はクソだ、あてにならない」
曰く「ゴジラKOMは……」「バトルシップは……」「この世界の片隅には……」などなど。
そもそも、他はまだしも『シン・ゴジラ』『この世界の片隅に』はむしろ批評家評も良かったのだが(それぞれキネマ旬報の2016年邦画で2位と1位である)、そうした事実よりも「批評家に酷評されたがヒットした、ので批評家は見る目がないくせに態度だけデカいやつらだ」という「物語」が優先されるほど、批評家、そして批評は毛嫌いされているのだ。まあ、実際、態度のデカい批評家、見る目のない批評家、あるいはその両方を兼ね備えた人もいるんだろうが……。
しかし、声を大にして言いたい。それでも、批評は必要であると。
ひどい批評家がいればその批評家とその人の書いた批評を批判すればいいだけで、「やっぱり批評という行為自体いらないんだ」ということにはならないのである。オタクの中に犯罪者がいるからとてオタクが全員犯罪者予備軍ということにはならないのと同じだ。
では、なぜ批評は必要なのか?
それについてはプロアマ問わず様々な答えがあるだろうが、そう訓練を積んだわけでもない自分が思うのは、ぶっちゃけ「なめられないため」である。
どういうこと?と思う方も多いと推測されるので、筆者の好きな分野である特撮を実例に挙げて説明していきたい。
時は1970年代後半。
『宇宙戦艦ヤマト』が再評価されるなど、アニメが子供だけが見るものから、徐々に大人も楽しめるものへと変わっていった時代である。
その流れを受け、初期のゴジラシリーズや、『ウルトラQ』『ウルトラマン』『ウルトラセブン』の、いわゆる昭和一期ウルトラシリーズが再評価され始めた。
同人誌文化が盛り上がりを見せ始め、商業でも思春期世代を対象とした、今でいうMOOK本が出始める中、1978年には『ファンタスティックコレクション 空想特撮映像のすばらしき世界 ウルトラマン/ウルトラセブン/ウルトラQ』(ファンコレ)という本が出版され、2年後には現在まで続く『宇宙船』が創刊。
そうした本の中で、先行していたアニメに続き、今まで子供向けのものにすぎなかった特撮ものを、文芸的、あるいは芸術的な観点から評価する試みがなされたのだ。
そうした大人のファンダムの盛り上がりが『ザ☆ウルトラマン』『ウルトラマン80』の製作につながっていったわけだが、それだけではない。
初期のウルトラシリーズが、たんに当時の子供にブームを巻き起こした人気作品であるだけでなく、後の世から見ても、また大人から見ても楽しめるものであり、かつ単純な作品ではなく高いSF性や社会問題の反映、高度の特撮技術が織り成す、文字通り「不朽の名作」であるという評価が定着したのである。
本日まで、そういった評価がおおむね反映されているといっていいだろう。
ここから何を学びとれるのか?
つまり批評の役割の一つとは、時代の象徴としてのみ見られている作品を、時間を超えても通じるものとして定着させることなのではないか。
単なる見世物ではなく、文化的・芸術的な側面からも素晴らしいものである、あるいは見世物ではあっても非常にレベルの高い見世物であると。
70年代後半の特撮再評価の話に戻ろう。
先程、「初期ウルトラシリーズが大人によって再評価された」と述べたが、公正を期すため、それらの負の側面についても述べねばなるまい。
高く評価された第一期ウルトラシリーズと対比される形で、『帰ってきたウルトラマン』から『ウルトラマンレオ』までの第二期ウルトラシリーズが、非常に低く評価されてしまったのだ。
『ウルトラマンタロウ』に至っては、前述のファンコレでは「怪獣と人間のドラマが分離している」「タロウの脚本は僕にも書けるという冗談が流行った」と、散々な言われようだったとのこと。
ここに批評の落とし穴がある。AとBを体系だてて比較することは、それぞれの特徴がより浮き上がる一方、気をつけないと必要以上に片方が貶されてしまいかねないのである。
だが、これだけでは終わらない。
それから少しして、あまりに低く評価されてきた第二期ウルトラシリーズの再評価が始まったのである。
1984年の「宇宙船」には、すでに第二期ウルトラシリーズの再評価という特集が組まれていたようだ。
当時作品を夢中になって見ていた子供が次第に成長し、発言権を得ていったこともあって再評価の声は次第に大きくなり、1999~2001年からはそれらの作品群を再検証するMOOK本のシリーズが出版。
現在では、「昭和二期シリーズは駄作」というかつての風潮は完全に払拭されたといえよう。
また、こうした「一時期は古い作品と比べられる形で不当に低く評価されていた作品が、時間を経て高い評価を受けるようになる」例は、チャンピオン期やVSシリーズのゴジラ、初期平成ライダーなど特撮だけでもいくつも見られる。
ここから言えることは、先行する批評がおかしいと感じたら、それに反論すればいいということだ。
「批評家は見る目がない」と思考停止に至るのではなく、先行する批評に熱意と理性をもって一つ一つ反論し、あるいはそれを上回る批評を書いて公開する。そうした行為を積み重ねていくことにより、気に入らないムーブメントを塗り替えていくのだ。
まとめると、私の思う作品批評の役割は
①作品を単なるムーブメントや消費物としてだけでなく、時を超えた価値のあるものだと主張する
②不当に低く評価されている作品をひっくり返す
ことである。
こうした意義を先程はまとめて「なめられないため」とした。
最後に、これらを2つ同時に成し遂げたブログを紹介したい。
ほあしさんのブログ「Black and White」である。
Black and White (hatenablog.com)
ここでの批評の対象は、言わずと知れた週刊少年ジャンプのバトル漫画『BLEACH』である。
今でこそ終盤のアニメ化や新作読み切り、同世界観の別シリーズなど大きな盛り上がりを見せているが、2010年代前半ごろはネット上で非常に低い評価をされていた。
「作者は何も考えずライブ感で描いている」「オサレポイントバトル」など……。
このままでは、無論当時の人気はあっても、時代の徒花として消費されていくだけの可能性もあったのではないか。
しかし、このブログではそうした風潮をひっくり返すべく、しっかり設定を練り込んでいないと仕込めない、作品の奥底の伏線や反復されるメタファー、先行作品からの影響から通底するテーマまで、あらゆる角度から批評が行われている。
そして、すさまじいことに、作者・久保帯人先生自身からお墨付きをもらっているのだ。
『BLEACH イラスト集 JET』発売記念 久保帯人先生サイン会 超個人的レポート - Black and White (hatenablog.com)
昨今、当時の評価が嘘のように『BLEACH』が盛り上がっているのは、当時のメインターゲットたる中高生が大人になり、ネット上の多数派になったのももちろん大きいだろうが、このブログが侮辱的評価を払拭したのも決して小さくないと思っている。
このブログはそういう意味で、先程の①および②を同時に達成したといえるのではないだろうか。
さて。
70年代のオタク文化黎明期はおろか、10年前と比較しても更に深夜アニメやゲームをはじめとした、いわゆるオタク的な作品は人口に膾炙しており(陽キャも配信で深夜アニメを見る時代である)、オタクであるだけで低く見られたりすることはほぼなくなった。また、子供向けコンテンツがジャリ番などと呼ばれていた時代もとうの昔である。
そうした意味で、「俺の好きなものをもっと世間に評価させてやる」といった、ある意味でネガティブなモチベーションを駆動させる必要は減っただろう。
だが、個々の作品ではどうか?
不当に低く評価されていると感じる作品。
人気はあるが、30年後には歴史の一部以上のものにはなっていなさそうな作品。
ネットミームとして消費されて終わりそうな作品。
そして、日の目を見ない埋もれた名作。
あなたが好きな作品で、そういうものの一つや二つは容易に思い付くのではないだろうか。
なら、批評を始めてみよう。
たまには「アオいいよね……」「尊い」「こういうのでいいんだよこういうので」だけではない世界に、足を踏み入れてみてはいかがだろうか。
参考
「特撮映画や『ウルトラマン』を論ずる」ことの原点
https://shimirubon.jp/columns/1674312
『帰ってきたウルトラマン』ドラマ論
『現実でラブコメできないとだれが決めた?』ラブコメ讃歌にして創作讃歌。
「現実とフィクションは違う」というのは、正解であるのと同時に間違いであると思う。もちろんほとんどの人は現実とフィクションは異なるものだと認識しているが、それはそれとしてフィクションは現実の人々によって創られるものだし、フィクションは現実に影響を与える。ONE PIECEを読んで海賊になる人が(多分)いないのは、海賊が現実には犯罪者であると読者が認識しているからだ。スポーツ漫画を読み、題材となるスポーツに魅力を感じそのスポーツを始める人は少なくない。
また、創作物に感銘を受け、好きが高じて自らも創り手に回る者も多い。『シン・エヴァンゲリオン劇場版』が記憶に新しい庵野秀明監督は、好きな作品を自分なりに咀嚼し自らのものとする、そうしたオタククリエイターの代表格だ。そして、今では『SSSS.GRIDMAN』をはじめ、そのエヴァに強い影響を受けた作品もある。創作による「好き」の線は連なっているのだ。
……と、ここまでは弊ブログらしい、特撮ものに近いジャンルのアニメだったが、今回はラノベ、それもラブコメの話。
『現実でラブコメできないとだれが決めた?』(略称:ラブだめ)の話だ。
元からラブコメが好きなのと、通勤中などに手軽に摂取できる娯楽を求めているのもあり、ここしばらくラブコメもののライトノベルをたまに読んでいる。
そうした中で一際面白かった、否、厳密には一発目でいきなり大当たりを引いたのがこの『ラブだめ』であった。
あらすじは大体こんな感じである。
大のラブコメ好きの長坂耕平には、妹も幼馴染も現役アイドルのクラスメイトもいないし、ラブコメ的な展開も自然には起こらない。しかし彼は特技のデータ分析を活かし、現実世界においてラブコメを実現させようとするのだった……!
自分の筆力の拙さにより魅力を伝えられていないことと思うが、このライトノベルは面白い。「作為的にラブコメ展開を起こす」というコンセプトからして面白いし、かといってコンセプト負けもしていない。ラブコメ展開を起こすための手段がデータ収集、あるいは培ったデータを基にした人々の心理的誘導などの作戦というのも、ケイパーもの的なワクワク感がある。もちろん、ひょんなことから計画に協力する「共犯者」となった、クールで理屈屋な上野原彩乃(1巻表紙の人)や、現在耕平の意中の相手である、「ヒロイン適性S」というほど二次元美少女的な挙動を誇る(?)清里芽衣をはじめ、各キャラクターも魅力的だ。謎や伏線とその鮮やかな回収も見所である。もちろん、本作自体がラブコメである以上、恋愛レースでどのヒロインが勝つか予想したり、異なるヒロインを推すファンと罵り合う語り合うのも一興だろう。わかりやすい難点といえば、耕平の台詞や一人称視点の地の文が、ネットスラング多用でゾワッとくるところだろうか……(まあ、それは彩乃にキモいとか言われることで相対化がなされているし、読んでるうちに慣れる)。
しかし、私が真に感銘を受けたのはこの作品のコンセプト=耕平の信念だ。
耕平は過去にある挫折を経験したが再起し、現実にはそうそう起こり得ないラブコメ的展開を現実に起こすことを目指す。
これは言ってみれば、「創作に影響を受けて良い方向に現実を変えようとする」ことでもあるし、また「過去の創作に影響を受け、リスペクトとオマージュを捧げながら新しく創作をする」ことでもあるのだ。
本作は、ラノベを中心に、大量の実在するラブコメネタが挿入されている。オタクネタの多い作品など珍しくもないが、重要なのは耕平がただラブコメを嗜んでいるだけではなく、それに大きな影響を受け、ラブコメのような理想の青春を実現させんとしている点だ。
やり方こそ常軌を逸しているが、大好きな創作物に「自分もああなりたい」と思い、またそれを実現させるために努力する。これは、創作物に良い影響を受けて走り出す人への限りない肯定なのだ。
かつ、耕平がラブコメ大好きであるというのみならず、作品そのものにラブコメへの深い愛が感じられる。もちろん作者本人がツイッター等でラブコメ好きを公言しているというのもあるが、そこまで詳しくない自分でも「本当に好きなんだろうなあ」と肌で感じるほどにラブコメへの偏愛がこの作品からはにじみ出ている。挫折からの問題解決、過去語り、メインキャラからは少し離れた位置のサブキャラ……など「この手のジャンルあるある」を、自ら説明しつつ陳腐にならないように作中に取り入れている。先行作品を尊重しつつ、新たにアレンジを加え魅力を引き出す。作者のラブコメへの深い造詣があってこそのことだと思う。
また、こうした作品が作られるということ自体、ジャンルの歴史と発展のあらわれであろう。ファンタジー要素のないラブコメもののラノベが流行ってからぼちぼち10年以上が経ち(※ 筆者はラノベ史に詳しくないので、「そういえば俺妹とかとらドラとか流行ってからしばらく経つな……」というなんとなくの印象です)、こうした作品に魅せられた人が創り手に回る時代がやってきたのだ。
閑話休題。ラブコメに影響を受け、ラブコメへの愛を捧げながら新たなラブコメを作り出す、というのは、耕平の信念であり、かつ作品全体に貫かれた芯である、といえよう。
創作は、「実在しないものを作り出す」ということだ。現実と虚構を等価に信じることができ、フィクションのキャラクターに実在の人物と同じように強い感情を持ったりする人間だからこそ、創作に影響を受けたり、自らも創り手に回ったりすることが起こるのだ(またエヴァネタ!?)。
この作品は、「ラブコメの影響を受けて現実で行動を起こす」「ラブコメの影響を受けた新たなラブコメを作る」という二側面において、限りないラブコメ讃歌となっている。それと同時に、ラブコメだけでなくより普遍的な「創作に良い影響を受ける人」讃歌、そして創作讃歌となっているのだ。
何を言いたいかというと、
5/18に3巻が出るので買ってね!!!!!ってことでした。
1&2巻のほうはAmazonで50%ポイントバック中だそうです(5/16現在)(なんかうまく貼れなかった)。
Amazon.co.jp: 現実でラブコメできないとだれが決めた? (ガガガ文庫) eBook: 初鹿野創, 椎名くろ: Kindleストア
Amazon.co.jp: 現実でラブコメできないとだれが決めた? 2 (ガガガ文庫) eBook: 初鹿野創, 椎名くろ: Kindleストア
Amazon.co.jp: 現実でラブコメできないとだれが決めた? 3 (ガガガ文庫) eBook: 初鹿野創, 椎名くろ: Kindleストア
『劇場版 仮面ライダーゼロワン REAL×TIME』新時代のライダーアクションを体感せよ
『劇場版 仮面ライダーゼロワン REAL×TIME』が公開中だ。夏公開の予定が、コロナの影響で延期になった映画だ。
で、観に行ったのだが……本当にアクションが凄い。このアクションの質と量の両立、そして熱量の高さは坂本浩一作品、特に『劇場版 仮面ライダーW AtoZ 運命のガイアメモリ』に匹敵すると思う。
『劇場版ゼロワン』の監督は、杉原輝昭。以前もブログで特集したが、ダイナミックなカメラワークとアニメ的な演出が得意な監督だ。
shikiponpishyn.hatenablog.com
そして、本作ではそのような長所が更に活かされ、まさに新時代の仮面ライダーにふさわしいアクション作品に仕上がった。
以下、箇条書きの形にはなってしまうが、『劇場版ゼロワン』のアクション(ほか)の凄さを自分なりに分析してみた。
①殺陣がすごい。
テレビシリーズに引き続き、アクション監督は渡辺淳が担当。
渡辺氏は2号・3号ライダーのスーツアクターを多く任されたが、同年代や上の世代もプレイヤーとして活躍している中、Vシネマ等のアクション監督を経て『ゼロワン』で本編のアクション監督に抜擢された。
まだ30代という若い感性を活かし、アクロバット等を取り入れた現代的なアクションを手掛けている。
また、杉原監督はガンマニアでもあり、前作『令和 ザ・ファースト・ジェネレーション』に引き続き、仮面ライダーバルカンおよびバルキリー、そしてAIMS隊員の統率のとれた軍隊的な動きもアクションに取り入れられている。
また、アクションのスタイルによるキャラクターの性格付け・心情の変化もアクション映画の重要な要素だが、本作においては、普段は比較的スマートな戦闘スタイルのゼロワンが、暴走形態・ヘルライジングホッパーに変身すると、我を忘れ相手にマウントをとってボコボコに殴るなど、悲痛なほど非常に荒々しい戦闘スタイルになる。また、AIMS隊員と量産型ライダー・アバドンとの練度の差もはっきり見てとれるようになっている。
②アクションのバリエーションがすごい。
ともすれば、普通に何回か戦闘があり、クライマックスはCGの巨大な敵を倒して終わり、になってしまいがちなライダー映画だが……本作は様々なシチュエーションでの戦闘がストーリーに沿って配置されており、飽きない工夫がなされている。
序盤には、仮面ライダーバルキリーによるバイクアクションがある。東映撮影所内でのアクションとなっているが、狭い路地にゴチャゴチャと撮影機材が置いてあるという撮影所の特性を活かし、軽量のバイクで路地裏を駆け巡るスピード感あふれるシーンとなっている。本編でバルキリーがあまり活躍に恵まれなかったこともあり、感無量であった。
また、本作では仮面ライダーVS戦闘機という珍しいシチュエーションもある。ライダー映画おなじみのCGバトルではあるが、恒例の巨大クリーチャー戦を避け、戦闘機との空中戦とすることで、新鮮さと迫力が生まれた。
その他、戦闘が行われる場所もバリエーションに富み、「戦ってるテンション上がる場面なのに退屈……」とあうことがなくなっている(と思う)。
③タイミングがすごい。
杉原監督はアニメ的演出が巧みだが、アニメーションにおいてはタイミングが重要とされる。アニメの作画については詳しくないので雑語りになっていたら申し訳ないのだが、本作は映像のタイミングも実に快楽的だ。
終盤はゼロワンと後継スーツ・ゼロツーがまさかの共闘するシチュエーションがあるが、両ライダーとも高速移動がウリだ。そして、杉原監督によって演出される彼らのアクションは……絶妙に目で追いきれない。長く残る光の軌跡と、目にも留まらぬ速さの本体。合成を巧みに使ったそのスピードアクションは、「彼らは高速で動いている」と観る者に理解させるだけでなく、スピード感による快感を覚えさせてくれる。
また、ゼロワンのトレードマーク演出として、必殺技を出すとその名前の文字がデカデカと画面いっぱいに現れるというのがある。(『ルパン三世』のサブタイトルとか、『血界戦線』の必殺技演出をおもいうかべてほしい。あんな感じ)本作でもそれがあるが、「そろそろこの演出が来るかなー」という絶妙なタイミングで文字が挿入される。大画面の迫力もあいまって、本当にうっとりさせられる。
④音響がすごい。
これは映画館の設備も関係あるかもしれないが、重低音の響きが凄い!ただ漠然とテレビシリーズの延長で音をつけているのではなく、しっかりと映画用の音響設計がなされていることがわかる。
⑤画作りへの気合いがすごい。
上記のようにアクションへの熱量が物凄い映画だが、だからといってそれ以外が疎かになっているわけではない。
ドラマパートも、しっかりとレイアウトが計算されており、美しい構図で見ることができる。ハイテンションな場面と静かに魅せる場面の緩急もしっかりとついている。総じて、「なんとなく撮っている」場面がないのだ。
例えば、冒頭から暗闇の中蛍光色に光る仮面ライダーゼロツーVSエデン……これまでの作品には見られなかった斬新な画作りだ。「これまでにないものを」という監督他スタッフの熱がこちらまで伝わってくる。
また、伊藤英明氏演じるエスが仮面ライダーエデンに変身するシークエンスは非常に力を入れた演出がされている。変身エフェクトがストーリーと関わりのある形にもなっており、カット割りも間の使い方もCGも非常にかっこいい。必見!
もちろん、それを支える伊藤氏、そして主演の高橋文哉氏などの俳優陣も称賛したい。
このように、アクションや画作りという面では、仮面ライダー映画でもかなり上位に入る出来だと感じられた。(ストーリーも面白いよ!)
映画館で観てこその作品に仕上がっているので、仮面ライダーが元々好きな人だけでなく、アクション映画やアクションアニメが好きな人も是非鑑賞してほしい。
※12/25現在新型コロナウイルス感染者が拡大傾向にあり、地域によっては医療の逼迫も報道されています。
映画館の感染リスクは低いことが実証されていますが、健康と安全のため、また医療への負担を増やさないためにも、手洗い・マスクなどの基本的な対策のほか、感染リスクの高まる5つの場面、特に会食などマスクなしで話す場面をできるだけなくし、万全な対策をした上で映画を観ましょう。(感染経路不明の例もその多くが会食で感染していると考えられるそうです)
『ウルトラマンZ』は、田口清隆監督による「最強の世界」だった
アニメ化・実写化も果たした人気漫画『映像研には手を出すな!』には、「最強の世界」というワードが登場する。主人公のひとり・浅草氏が妄想、いや空想する、自らの美学と興味に基づいてデザインされた景色。これを具現化するため、浅草氏はアニメを制作していく……。
「最強の世界」とは、自分のビジョンが、たとえ独りよがりであろうとしっかり見えている作家が見ている景色なのだろうと思う。
田口清隆監督が『ウルトラマンZ』の企画に参加したとき、絶大な人気を誇り、10周年を迎えるウルトラマンゼロを主軸にすることは既に決まっていたという。ベリアルを絡め、さらにそのためにジードを出す、ということも。
このような条件を出されたならば、普通の人であったら「じゃあ、『ウルトラ銀河伝説』~『ジード』に連なるような、ゼロ・ベリアルサーガの新章にしよう」と考えるだろう。
だが、田口監督はそうしなかった。円谷プロ側が事前に作ってきた企画書を断り、気鋭の脚本家・吹原幸太氏とともに、新たな企画を練っていったのである。
放送された作品を見てみると、ゼロ・ジードの産みの親である坂本監督による6・7話を除き、ほとんどゼロ関連の要素が後景化しているのがわかる。
デビルスプリンターにより凶暴化した怪獣は、ついに本編には一体も出なかった。
ベリアロクは、見た目と声と口調がベリアルっぽいだけの全くの別人(?)である。そのベリアロク、そしてゼロ・ベリアル・ジードのメダルで変身するデルタライズクローが初登場となる15話も、対グリーザを主軸に進行する。ジードはこの回にも登場するが、6・7話に比べるとそのパーソナリティーに焦点は当てられず、あくまで先輩ウルトラマンとしての扱いに留まっている(尺の都合もあろうが)。
……と、このように、『Z』におけるゼロ・ベリアル・ジード要素は、商業的な要請によるものを除くとかなり少ない。『ジード』では、ゼロがレギュラー出演し、成長も描かれていたのとは対称的だ。
では、ゼロの要素が少ない分、『Z』はどのようなもので形作られているのか?
それは、SF要素、怪獣要素……といった、『ウルトラQ』『ウルトラマン』で示されていたものだ。言い換えれば、「空想特撮」の要素ともいえる。
『ウルトラマンZ』は、ほとんどの回で怪獣が話の中心にいる。1話はゲネガーグ、2話はネロンガ、3話はゴモラ……。前述のように、パワーアップ回である15話も、グリーザが圧倒的な存在感を放つ。
また、言わずもがな、戦闘機はロボットへと形を変えつつも、防衛隊の5年ぶりの復活もトピックとなった。ワンダバもある!そしてその防衛隊であるストレイジは、これまでの防衛隊に比べると町工場的な無骨な装備が強調され、軍隊的な所作も含め、スタイリッシュではない泥臭いカッコよさが描かれている。
これは何に起因するのか?というと、やはり田口監督の作家性というに他ならない、と思う。田口監督は『Q』『マン』『セブン』の昭和1期作品好きを公言し、また好きな特撮映画に『ゴジラVSスペースゴジラ』『ガメラ2』を挙げる。『VSスペースゴジラ』(もちろん『VSメカゴジラ』も)には、人類が駆動するロボット怪獣が登場するのはもちろん、「泥臭いカッコよさ」は、MOGERAやガメラ2の自衛隊にも相通ずるものがある。そして、怪獣の特異な生態が脅威となり、またそれを分析して対処するストレイジ、という構図は、『ウルトラマン』や平成ガメラからも似たものを読み取ることができる。
怪獣が話の中心にいる、ということは、怪獣がそこにいるという非日常が立ち現れるということでもある。代表例が、『オーブ』で魔王獣により蹂躙される世界だろうか。
『Z』において最もわかりやすく表出しているのが、14話『四次元狂騒曲』だ。ブルトンの出現により時空が歪み、ストレイジは出撃さえできない。そして、「最も行きたい場所」を望んだハルキは……。中盤を盛り上げた傑作エピソードだが、その中心には常にブルトンがおり、ブルトンによって現出する非日常からドラマが駆動する。
演出面においても、ブルトンにより重力がおかしくなった室内は、我々に特撮映像の面白さを再確認させると同時に、「怪獣がいるという状況」により変化した景色を見せてくれるのだ。
このように、『ウルトラマンZ』は、「ウルトラマンとは怪獣SFである」という基本を、全ての回ではないが忠実に守っている。起点となったゼロシリーズが、「ウルトラマンサーガ」以外は宇宙を舞台にし、アニメ的なキャラクターが繰り広げるヒーローの成長劇であったのにもかかわらず、だ。
そういう意味で、『ジード』とは真逆の作風であるともいえる。ゼロ・ベリアルサーガであるという原則に忠実に、SF要素を取り入れつつ新人ヒーローの自立を描ききった『ジード』と、ゼロ・ベリアルサーガはどこかに行ってしまい、ロボットVS怪獣ものをやっている『Z』 。
そう、『ウルトラマンZ』は、ある意味商業的要請で入れられたゼロ要素を、田口監督の作風で捩じ伏せたようなある種の歪みのある作品なのだ。
(なんかゼロをdisる感じになっちゃったけど、ゼロは大好きだしゼロシリーズではゼロファイト二部が好きです)
ここまで述べたほかにも、『ウルトラマンZ』には田口監督らしさが随所に溢れる。セブンガーのドラム缶型の体型は、『大怪獣映画 G』(未見……)に登場するロボットにどこか似ている。ヘビクラ隊長を演じる青柳尊哉氏は、もちろんジャグラス ジャグラーであることはもちろん、『オーブ』以来『女兵器701』『UNFIX』と田口作品の常連俳優でもある。また、吹原氏は『ゆうべはお楽しみでしたね』で初めて田口監督と組んで以来意気投合したタッグであるという。
特撮面も、1話冒頭から着ぐるみ怪獣と実景の合成というおなじみの技をさらにパワーアップして見せた。15話ではグリーザをデルタライズクローがビルごとぶち抜くカットがあるが、ビルを突き破るウルトラマンと怪獣(宇宙人)というのは、五月天のMVを想起させる。さらに、そこでビルの電気が消えていく表現も、『劇場版ウルトラマンX』で見られたものだ。
田口監督によるディレクションは、脚本や特撮面以外にも立ち現れる。
音楽においては、アルファエッジのテーマは伊福部昭を意識した民族音楽的なテーマを安瀬氏にお願いしたという。ここでもルーツは怪獣映画だ。
そして……バコさんを演じたのは『ゴジラVSスペースゴジラ』主演の橋爪淳氏であり、さらに最終回ではセブンガーに搭乗。しかも、その際のセリフはスペゴジオマージュであるという。(念のため……筆者が気付いたのではなくツイッターで知った)
このように、『ウルトラマンZ』はこれまで田口監督がメイン監督を務めた『X』『オーブ』以上に監督の作家性が発揮された、集大成的作品であるといえよう。
集大成であるということは、つまりどういうことか? その共通点から、田口監督の好きなもの、目指しているもの……といった「景色」が見えてくる。
その景色とは、まさに「空想特撮」の世界であり、怪獣により一変する日常、それに立ち向かう軍隊……そういったものであるのではないか。事実、田口監督は「『スターウォーズ』より『宇宙戦争』のほうが好き」であるともいう。
『R/B』は武居正能監督がメイン監督として参加した時点で大枠が決まっており、自由度が少なかったという。また、『ジード』も乙一氏が自由に結末を決めたわけではなく、ある程度円谷プロから構成は提示されていたという。『タイガ』も、シリアス路線で、というのは円谷側からの要請だったようだ。
このように、ここ数年のニュージェネ作品は円谷側の裁量が大きかった。が、田口監督はそれを変え、少なくない商業的制約や、コロナ禍による撮影制限などはありつつも自分のやりたいことを詰め込み、しかも大ヒットに導いたのだ。(ただ、もちろん悪の円谷VS正義の田口監督、という単純な構図ではおそらくないだろうことは、念のため釘を刺しておきたい。もともと、今年は怪獣推しでいこうという流れもあったようだ)
『ウルトラマンZ』は、紛れもなく、田口監督の「最強の世界」であったように思う。
最後に、これまで言う機会を逃してきたが……田口監督とともに作品に多大な貢献をした吹原幸太氏のご冥福をお祈りしたい。ここまで田口監督の作家性について述べてきたが、それは多くの面で、吹原氏の作家性でもあっただろう。氏の新たな作品を見ることができない、という事実が残念でならない。
だが、田口監督、吹原氏、そして数多くのスタッフ・キャスト達が作り上げたウルトラマンZという「最強の世界」は、特撮史においてまばゆく輝くマイルストーンになったと思うし、それがきっと天国にも届いたと信じたい。

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特撮オタクVS『TENET テネット』
※ネタバレほぼなしです
『TENET テネット』を見た。「話が難解」ということは耳にしていたので、まあそんなに理解できないだろう、と思って望んだが、まじで思った以上にさっぱりわからんかった。逆行とかの理屈以前に、スパイパート?でも今なんのために何をやってるのかもよくわからなかった……まあこれは俺の理解力の低さもあるんだろうけど……
しかし、「話はわかんないだろう」と思いつつも見に行ったのは、「映像が凄い」という評価をしばしば聞いたからであった。
そういう感じで映像面には大きく期待していたのだが、実はそちらにおいても期待していたほど凄いとは思えなかった。主人公が逆行の世界に初めて入ったあたりでは凄い!となったが、目が馴れてきた終盤は驚きや感嘆よりもスタッフやキャストの苦労を思う心のほうが強くなってしまった。
ノーランはCGをなるべく使わない実物主義で知られており、今回も逆行の表現に、キャストに本当に逆の動きをしてもらうなどのことをやってる。車がバックでカーチェイスしたり、後ろ向きでダッシュしたりしたというのだ。俳優が言葉を逆に話したシーンもあるという。また、逆行ではないが、本物の飛行機が建物に突っ込むシーンは見せ場のひとつだ。
ただ、「相当無茶しないと撮れない映像」ではあれ、裏を返せば「相当無茶すれば撮れなくもない映像」だけで本作は構成されていたのでは?
もちろん、逆再生は特撮以前のトリック撮影の基礎であり、それを使って大作に仕立てあげたノーランをさすがと言いたい気持ちもあるし(ある意味で、映画が100年前の原点に立ち返ったともいえる)、CGでは成し得ない実在感や質感が宿るのもわかる。たとえば、『ドクター・ストレンジ』の終盤でも本作に近いシチュエーションがあるが、確かに本作はCGっぽくなさはある。(ただ、これが「ノーランはCGをほとんど使わずに撮っている」という事前に知った情報によるバイアスがかかっている可能性も否定できない)
しかし、それでも、私は本作に実物撮影の限界を感じてしまった。「超大作でこんな低予算アイディア映画みたいなことできるのはノーランだけ」という感想もわかるのだが、どうしても「良くも悪くも」という留保はつけたくなってしまう。フィルムの逆回しを上手く行うために様々な工夫がされたとのことだが、根本的には「逆再生の映像を撮るには逆に撮る」というゴリ押しでは……とも思う。もっと言えば、SFXやVFXに頼ることで、もっと規模の大きい逆再生と普通の人が混ざった映像が展開できたのではないか。もちろん、それでは普通の大作映画になってしまうリスクもあるが……。
繰り返すが、本作は「超大作だが、実物にこだわって撮影した」という、今日のVFX全盛期において他の映画にはない魅力があることは確かだ。ただ、「実物では絶対に撮れないものを、できるだけ実物らしく撮るための創意工夫」およびその結果として現れた映像を愛している特撮のオタクにとっては、「無茶しないと撮れない映像」よりも「普通のやり方では絶対に撮れない映像」での驚きを見せてほしかった、というのも本音なのである。
余談1:それはそれとして、まあまずないだろうがノーランは今度は逆回しだけでなく早回しやスローにも挑戦してほしい。数億ドルかけた超大作で俳優ががんばってスローに動いてるのを見るのは絶対楽しいので……
余談2:一番凄いと思ったのは、予告にもある順行VS逆行の殴り合いだった。どれだけ綿密なアイディアの出し合い、プレビズ、リハーサルが繰り返されたことだろう!
参考文献とか: