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ブレーザーに足りなかったもの、そしてあったもの。『ウルトラマンブレーザー』総括感想

ウルトラマンギンガ』から10年の節目である2023年から翌2024年にかけて放送された『ウルトラマンブレーザー』は、ニュージェネレーションヒーローズの積み上げてきたノウハウを活かしつつも、ニュージェネのお約束の多くを排した異色作となった。
であると同時に、ウルトラマンのSFオムニバスという側面にフィーチャーした、王道のウルトラシリーズ作品でもある。

本作は、「縦軸ドラマを担当するヴィラン」「日本語をしゃべるウルトラマン」「数多くのタイプチェンジ」という各要素を廃しているのみならず、根本的なところでも例年のウルトラマンと異なるところの多い作品だったのではないか。
この記事では、作品としての『ウルトラマンブレーザー』に足りなかったと思うもの、そして例年のニュージェネウルトラマン以上にあったもの……という観点から、作品を総括していきたい。


ウルトラマンブレーザーは、痒いところに手が届かなかった。
本作でよく言われる批判が、アースガロンの戦績が良くないということだ。アースガロンが「活躍していない」「かませ」みたいなのは半ば事実誤認で、アースガロンがいなければブレーザーが勝てなかった戦いも一つや二つではない。
……とはいえ。いくらいぶし銀の活躍は多くても、もっと派手に強敵を打ち破ってほしかった、という批判そのものは理解できる。ナイスアシストをしていても、その後怪獣に倒されて後はブレーザーにお任せ、ということも多く、いかんせん、あまり強くない印象はある。
……でも劇場版ではそんな不満を打ち破ってくれたので、まだ観てない人はぜひ観てね!!!!!!!

また、リアル寄りな作風の割にゲントがブレーザーだと全くバレないのも気になるといえば気になる。
そもそも作中の人物には「人間がウルトラマンに変身する」という発想自体がないだろうから……とは思いつつも、数分間とはいえ毎回のようにゲントがいなくなるのに他の人は気にするそぶりすら見せない、上層部もそこは怒らない、というのは、さすがにちょっと不自然だったように思う。
前作『デッカー』ではユーモアも交えつつ、カナタがウルトラマンだとバレにくくする仕掛けを用意していたから、尚更気になる。

そして……ファードラン、もうちょっとなんとかなっただろ!!

……以上の3点のように、『ウルトラマンブレーザー』は視聴者の少なくない割合が気になっている点を解消させてくれなかった、というのは確かにある。

 


ウルトラマンブレーザーは、ケレン味が足りなかった。
「アースガロン単独撃破少ない問題」のもう一つの側面は、これだ。なんだかんだで、ヒーローやロボットが派手な技で派手に敵を倒し、見得を切ったりするお約束は、このジャンルが好きなら大抵の人は好きだろう。
しかし、アースガロンの装備はアースファイア以外は中々地味。鳴り物入りで出てきたMod.2ユニットも、ピュッと弾丸を出すくらい。ここ数年定番となった味方ロボット怪獣の中では、一番渋好みである。
SKaRDの装備も青系のツナギに現実的な銃、基地も派手さはない。
そして肝心のブレーザーも、タイプチェンジが(ファードランアーマーは置いといて)ないだけでなく、光線系の技も少なく、ファイトスタイルも流麗な格闘技ではなく荒々しく野性的なもの。
もちろんキャラクターや世界観には合っているが、これらにどこか物足りなさを感じる人もいただろう。
あと、個人的に結構大きな不満なのが、思いの外スパイラルバレード大喜利がハネなかったこと。序盤こそ頑張っていたものの、レインボー光輪やチルソナイトソードにトドメの主役を譲り、中盤からはあまり出なくなってしまう。
販促的には仕方ないのだが、トドメにはしないにしてももうちょい定番の技として一貫させ、かつバリエーション豊かに魅せてほしかったかな……。

これらのケレン味の薄さは、今回、久々に坂本浩一監督が不参加だったというのも大きいかもしれない。坂本監督のウルトラマンは賛否が分かれるところだが、少なくとも派手さ・ケレンやスパイラルバレードの面白い魅せ方は担保してくれただろうな、と思う。

と、このように、『ウルトラマンブレーザー』は、確かに足りていないところ、気になってしまうところも割とある作品だった。作風が好みに合う私ですら少し気になるのだから、好みでない人にとっては尚更だろう。SNS上などで賛否両論であったのも、理解できるのだ。

しかし、では『ブレーザー』が面白くない作品だったのか?というと、全くそんなことはない。
大前提として面白いウルトラマン作品であったし、足りなかった要素もあった分、例年以上にあった要素も多々含んでいる作品であったように感じる。
では、私の考える、本作の「あった」部分を見ていきたい。



ウルトラマンブレーザーには、美意識があった。

成田亨によるウルトラマンの油彩画が『真実と正義と美の化身』であるのは有名な話だが。
ウルトラマンブレーザーのデザインには、初代ウルトラマンウルトラマンティガの持つ調和のとれた美とはある意味対極的ではありながらある意味では相通ずる、荒々しい美があると思う。
ひとつ前の主役ウルトラマンであるデッカーをさらに上回るアシンメトリー、顔から漏れ出るような、傷めいた光の装飾。円形のカラータイマーから血管のように伸びる赤と青のライン……
得体の知れない未知の宇宙人であること、狩人であること、それでいて優しさと善性を持っていること、その姿を見るだけでそれらを感じることができる。個人的にはニュージェネウルトラマンでもギンガに並ぶ傑作デザインだと思う。
「荒々しさの美」はブレーザーだけでなく、怪獣たちからも感じられる。特に楠健吾氏の手掛けた4体、バザンガ・タガヌラー・デルタンダル・ヴァラロンは、生物的でありながら現実のどこにもいない、まさに「怪」なる「獣」たる美しさを備えていると感じる。
本作の美意識は、キャラクターデザインのみにあらず。本編・特撮美術は非常に密度が高い!
SKaRD基地内の各隊員の机は、そこで本当にそれぞれが働いていそうなリアリティあふれる小道具でいっぱいだ。そしてアースガロンのコクピットは、まさに特空機の発展継承ともいうべきミリタリー的リアリズムあふるる密度感!こうした視覚的な実在感が、文芸設定などと相乗効果を生み作品の完成度を高めるのだ。
そして特撮美術。本作での特色は、なんといってもミニチュアのバリエーションである。ブレーザーでは、これまでのニュージェネ作品ではあまり見られなかった港町・農村などのシチュエーションにおいて、ドラマパートとカットが切り替わってもほとんど違和感のないリアルなミニチュアを見せてくれる。
都市部に限っても、1話の池袋・最終回の品川・劇場版の霞が関と、東京の各部においてそれぞれ微妙に異なる装飾が行われ、各都市のロケ地に近い印象を与えることに成功している。

もうひとつ付け加えておくと、中川和博監督回、特に7・8話の「虹が出た」は非常に美意識が強く出ていたと思う。
夏の設定なのに撮影時期的に景色が夏っぽくないという欠点こそあるものの、画面構成・カットの割り方・特撮・VFXと、どれをとっても映画的であり、とても美しかった。
ゴジラフェスの短編シリーズなど乗りに乗っている中川監督。今後も注目していきたい。




ウルトラマンブレーザーには、「好き」の力があった。
以前『ウルトラマンZ』について書いた時に、「最強の世界」と評したが、今思えばZはまだ手加減してたんだなと感じてしまうほど、『ブレーザー』は田口清隆監督の好きなものが詰まっていた。
『Z』より更に濃くなったミリタリー描写(これに関しては、田口監督と共同でシリーズ構成を務める小柳啓伍氏の貢献も大きいだろう)、それでいてどこかユーモラスな(でもわざとらしくない)雰囲気。
まんまメカゴジラなアースガロン、そして怒涛の新怪獣。再登場怪獣の枠でも、田口監督の悲願であったガヴァドンなどが復活している。OPのサビまでがこれほど怪獣重視なのは、ニュージェネでも異例のことだ。
商業的にも推し出された怪獣ソフビの数々の売れ行きが好調だったらしい話を聞くと、世の怪獣好きはかつての怪獣コンテンツ氷河期を思い、涙したことだろう。
また、第1話「ファースト・ウェイブ」はまさに田口作品の真骨頂ともいえる話数となっている。怪獣映画のサビの部分だけを抜き出したような硬質な雰囲気はニュージェネどころかウルトラシリーズ全体でも珍しい。本作の発想の出発点は「怪獣が暴れる池袋に空中から降り立つ防衛隊」だったとのことで、まさに田口監督がやりたかったことが特に表現されているといってもいいだろう。
その池袋や最終回の品川と、東京の実在都市を舞台にした特撮が続き、そしてついに劇場版では霞が関中心を最終決戦の場とし、国会議事堂が破壊される。
怪獣映画にとって、有名建造物の破壊は華の一つ。『ブレーザー』は、田口監督の怪獣映画好きがこれまでのメイン監督作品以上に表出した作品といってもいいだろう。

「監督には好きなことをやらせすぎず、ある程度縛ったほうがいい」という意見は昨今結構耳にするし、それも間違ってはいないと思う。なんだかんだで、大衆の求めるものとのすり合わせが、商業作品を作る上で大切であるとも思う。
でも、かっこいいじゃん、自分の「好き」を実現させるために全力な姿は……。
本作でも頻出した、いわゆる川北後光は、自分の好きなものを形作った先人たちへのリスペクトと、それを受けて自分のやりたいことを、色々縛りの多い子供向けシリーズの中でも実現させていく、という田口監督の意思表明のようにも感じられた。



ウルトラマンブレーザーには、志があった。
「好きが詰まっている」とだけ言ってしまえば、ともすれば独りよがりな作り方のようにも思えてしまうが、『ブレーザー』は独りよがりな作品にはなっていなかったとも思う。
と、いうのも、本作は今後ウルトラシリーズが続いていくにあたってのレガシーを遺したからだ。

ウルトラシリーズは嬉しいことにここ数年、商業的に好調となっている。
しかし、好調ということは今成功している「型」のままいけば大外しはしにくい、つまり商業的にも同じことを続けがちになっていくということ……。
例えば、今までのニュージェネウルトラマンは、大なり小なりどこかで過去のウルトラマンの要素を含んでいた。力をお借りしたり技アイテムを使ったり……。
しかし、それが続けば段々とやれることが狭まっていってしまう。それを『ブレーザー』では、大きく変えた。それ自体が、商業的に大きな勇気の要る決断であったと思う。
もちろん、『Z』の防衛隊復活や、『トリガー』『デッカー』のあまり喋らないウルトラマンなどの延長線上の挑戦でもあるが、それでも今が大きな方向転換をやるべきタイミングだったと思う。
一度変わったことをやってみて、かつそれで大失敗しなければ、後続も挑戦しやすくなる、やれることが広がるはず。
後に続くウルトラマン作品の幅を広げるためにも、一度異色作を作るということは志あるチャレンジだったことだろう。

各話単位でも、各スタッフの志は高かったように思う。
それを特に感じたのは、9話「オトノホシ」および、半総集編である13話「スカードノクターン」だ。ニュージェネ13話の総集編回は新人監督の登竜門とのことだが、本作の13話は「自分の足跡を刻みつけよう」そして「良い作品にしよう」という志が強く感じられた。今回が初メガホンとなる宮崎龍太監督は実相寺昭雄監督のファンとのこと。私が珍しいなと思ったのは、変わったところにカメラを置いたり魚眼レンズで顔を歪めたりする、いわゆる「実相寺アングル」には多くのフォロワーがいるが、場面転換に違和感のある音を用いたりして緊張感を出していく手法は、実相寺監督リスペクトを公言している人でもあまり引用していないように思う(他にいたらすみません)。
そういった意味でも、既に作風が確立されているし、こちらも今後が楽しみな監督であった。


ウルトラマンブレーザーには、伝えたいことがあった。
個人的に、田口監督メイン作品として、過去作と一番変わったところがここだと思う。インナースペースがあるかとか、怪獣が既存多目か新規多目かとかは、いわば表層的な違いである(表層こそ大切である、とも思うが)。

ガイやジャグラーのパーソナルな物語として決着した『オーブ』はともかく、『X』の「怪獣との共存」や、『Z』の「全ては救えない」「強すぎる力を持つ怖さ」……は、どことなく地に足が付いていない感があった。特に『Z』の力を持ちすぎる恐怖は、結局、人類のエゴが招いたものというよりは、セレブロが遊び感覚で裏で手を引いていたからだった、というふうに処理されてしまったのだ。『Z』はウルトラシリーズでも特に好きな作品だが、ここは未だにどうにかならなかったのかな、と思わなくもない。
しかし、『ブレーザー』の、とりわけ最終回は、非常にテーマ主義的だった。作品として掲げていた、コミュニケーションというテーマ。かつて起きた、「伝わらなかったこと」による負の連鎖。それがピークに達し、あわや人類対V99の泥沼の戦いが始まるのか、というところで、SKaRDは、ブレーザーは武器を捨て、必死に攻撃の意志はないことを訴えかける。そしてV99側もついにそれに応じ地球を去っていく───
これは、凄惨な戦争のニュースが日々伝えられるここ数年を顧みると非常に時代を反映したものであると同時に、普遍的でもある。悲しきかな、人類の間で戦争が完全に絶えたことはない、というだけでなく、そういった大きな問題を我々個人間の小さな問題に置き換えることもできるからだ。
仔細な行き違いが大きな歪みを生み、それを直せなければやがて決裂する。これは田口監督がキャリアをこなしてきた中で実感してきたことなのだろう。そして、「やがて」に至る前であれば、かつ直そうとする勇気があれば直せるということも。
ウルトラマンブレーザー』は、中盤のゲントとブレーザー【個人間】、終盤の地球人類とV99【異なる人類間】で、スケールが大きく異なる行き違いとそこからの歩み寄りを描いた後、劇場版で再度マブゼ社長とその息子・ユウキというパーソナルな行き違い、及びそこからの歩み寄り……という動きを反復する。集団とて結局は個人の集まりである以上、結局その動き方は本質的に同じなのかもしれない、ということを示すかのようだ。

そしてもうひとつ。混迷する昨今の世界情勢を思えば、防衛軍の決定に従い各国もV99迎撃をやめるという展開は、牧歌的で、比較的高く保ってきた本作のリアリティラインにそぐわない、とも言えなくもない。
しかし、なんだかんだで『ブレーザー』は子供番組だ。ここ一番のクライマックスで「しかし従わない国も少なくありませんでした」なんてやってしまったら、悲観し、現実ばかりを見て理想を唱えなくなる……なんて子が生まれてしまうかもしれない。ここはあえてリアリティラインを下げてでも、「がんばって相互理解しようとすれば、相手も歩み寄ってくれる」というメッセージを優先すべきところと思うのだ。
ウルトラマンブレーザー』は好き放題やってるようでいて、なんだかんだで子供の方をしっかり向いている作品であったと思う。
(ついでに言うと、この最終回はメッセージ性が強くありつつも、「ブレーザーやアースガロンがヴァラロンにやられてしまう前にV99は応じてくれるのか」というハラハラ感も出してくれ、説教臭くなっていないのも良いところだ。道徳の教科書を好んで読む子供は、皆無とは言わないけどあんまりいないからね)
このメッセージの切実さは、これまでの田口作品にはあまり感じられなかったものであり、そして本作の最大の特徴のひとつであると思う。

 


さて、4度目のメイン監督兼2度目の共同シリーズ構成という大仕事を終えた田口監督の次なる夢は、「予算と時間を十分にかけた長編映画ウルトラマン」だそうだ。映像表現としては、『ガメラ3』の延長線上的な、CGと特撮のハイブリッドを目指したいという。

「ウルトラマンには、もっと可能性がある」田口清隆監督が目指す、特撮の未来と“夢”の進む先|最新の映画ニュースならMOVIE WALKER PRESS

今回は相当裁量権が大きかったとはいえ、予算も時間もそう潤沢ではないと伝えられるニュージェネウルトラマン。制約から諦めてきたことも多かったろう。あるいは、玩具と連動する販促番組だというのも、ある意味ではシリーズの武器であるけれど、ある意味では枷でもある。
そういった制約から完全にではないもののある程度解き放たれ、度肝を抜く映像を、かっこいいウルトラマンと怪獣を、微に入り細を穿つディテールを、最強の世界を、そして普遍的なテーマ性を。
備えた田口監督による新たなウルトラマンを、いつになるかは分からないけど見てみたい。
(そしていつかはゴジラ映画を……!)